ウランの核分裂は1938年末にドイツで発見された。その直後に起こった第二次世界大戦中にナチスが原爆を開発するのではないか、という恐怖感が米英の連合国に強かった。それが米国の原爆開発の誘因になったことはよく知られている。ドイツが原爆を開発するとなれば、その中心人物とみられたのは、量子力学の建設者で、不確定原理を提唱した理論物理学者のハイゼンベルク(1901~76年)だった。ハイゼンベルクらはドイツ南西部の山あいの美しい町、ハイガーロッホの丘にある教会の地下洞窟に重水炉を建設し、終戦直前の45年2月末に実験したが、核分裂の連鎖反応が持続する臨界に達しなかった。

写真. ハイゼンベルクがハイガーロッホに建設した重水炉の炉心の構造。天然ウランの1辺5センチの立方体が664個ぶら下げられている。

この原子炉は、ナチスの降伏直前に米国が送り込んだアルソス特殊部隊によって45年4月に、近くの畑に埋められていたのを接収され、徹底的に調べられた。現在は、再現された炉心が現地の博物館で公開されている。その構造を基に計算したところ、「原子炉がほんの少しだけ大きければ、臨界に達していた」とする計算結果を、高エネルギー加速器研究機構(KEK)の岩瀬広・助教をまとめた。科学史に造詣が深い政池明(まさいけ あきら)京都大学名誉教授(素粒子実験物理)と連名で、日本物理学会誌4月号に「ハイゼンベルク原子炉の謎」と題して報告している。

グラフ1. ハイゼンベルク原子炉と同じサイズ(直径、高さとも124センチの炉心の場合の計算結果。aは天然ウラン燃料立方体の1辺、bはその間隔、kは炉心での中性子の実効増倍係数。kが1を超えれば臨界に達する。(提供:政池明京大名誉教授)

グラフ2. 原子炉の円筒サイズを高さ、直径とも132センチと少し大きくした場合の同様の計算結果。k=1に届き、臨界に達することがわかる。(提供:政池明京大名誉教授)

それによると、ハイゼンベルク原子炉は直径、高さともに124センチの円筒形で、周りは厚さ40センチの黒鉛遮蔽体で覆われていた。天然ウランが燃料体として使われ、1辺5センチの立方体が計664個、78本のアルミニウムの鎖で炉心の天井からぶらさげられて、中性子減速材の重水に浸される構造だった。岩瀬広さんがモンテカルロ法でこの原子炉の核分裂反応を計算した。天然ウランの量は、臨界に達するのに十分で、燃料切片のサイズや間隔もほぼ適切だったが、炉心が小さかったために、わずかに臨界に達しなかったことを確かめた。

岩瀬さんの計算では、この原子炉はかなり臨界に近い状態で、炉心の円筒の高さと直径をそれぞれ8センチ伸ばして132センチにしておれば、臨界したことになる。ハイゼンベルクらはかき集めたウランと重水を、連合国の猛爆撃をくぐり抜けてハイガーロッホまで運び込んだ。しかし、減速材の重水の量がわずかに不足して、余裕のない小さな炉心しか作れず、「最後まで臨界に至らなかった」と政池明さんらは指摘している。

第二次世界大戦前から、重水のほとんどはノルウェーのリューカンにある工場で製造され、備蓄されていた。原爆開発と関連して、この重水は最も重要な戦略物資になり、連合国とナチスの間で激しい争奪戦が繰り広げられた。1943年2月に実際にあった、ノルウェー人6人の決死隊による爆破作業は、カーク・ダグラス主演の映画「テレマークの要塞」(65年、原作は「原爆を阻止したスキーの男たち」)にも描かれた。こうした連合国側の必死の重水阻止作戦が奏功し、ハイゼンベルク原子炉の臨界を止めたといえる。

政池明さんは「臨界量の計算はハイゼンベルクでも難しかった。重水がわずかに足らなかったために臨界しなかったことを明らかにしたのは、今回の計算が初めてだと思う。ハイゼンベルクが1941年秋にコペンハーゲンのボーア(1885~1962年)宅を訪れて会談した実話は98年に戯曲『コペンハーゲン』に描かれ、日本も含め世界中で上演された。ドイツの原爆計画や大戦中のハイゼンベルクの活動は、本人が戦後、多くを語らなかったこともあり、謎がまだ多い」と話している。