フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)
さしのべられた手
1937年 (昭和12) 12月末、信夫は津守ネジ製作所を津和親子に渡し、みずから去った。東京から大阪に引き揚げてきたときと同様、信夫は丸裸になってしまった。
東京の写真植字機研究所を去ってきたときは、事情が事情だからと信夫の行動をいくらか理解してくれた周囲の人たちも、今度は「わけのわからない素人じみた理由で、せっかく取り組んできた仕事から身を引くとは、なんて馬鹿げたことだ」と、いささか呆れ返った。
しかしそれにしては、信夫の腕はこのまま放っておくには惜しい。気の毒でもある。そうかんがえて信夫に救いの手をさしのべてくれた人がふたりいた。大阪で信夫がもっとも尊敬していた久金属工業 (大阪市西成区津守町) の久庄次郎社長 [注1] と、地球印で知られていたネジ界の名門、福田製鋲所 (布施市高井田町) の福田専蔵社長 [注2] だった。
久は、彼の会社の向かいにあった元岩城塗料製造の工場 (石川郁二郎所有) [注3]150坪を借りてやろう、と信夫に言った。「工場をここに用意するから、もう一度再起してくれ」というのだ。
「ただし森澤さん。今度はへまやったらあかんぞ」
久は信夫に念を押した。
福田は、「保証人になってあげましょう」と、銀行から5,000円の資金を借りるために力になってくれた。
こうした人々のあたたかい援助のおかげで、信夫は1938年 (昭和13) 春、大阪市西成区津守町で、晴れて150坪のネジ工場を運転できるはこびとなった。社名は森澤ネジ製作所とした。
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津守工場の再現模型 (モリサワ所蔵)。この工場は1938~1957年まで信夫が使用した。建物はその後、久金属工業の工場として使用されていたが、2018年、関西を直撃した大型台風21号により甚大な被害を受け、2019年に解体された [注4]
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津守工場は建物が解体されたあと更地になり、しばらくの間、門扉とその右側の塀のみが残されていた。筆者が2023年1月19日にこの地を訪れたとき、信夫たちが手で触れ通っていたであろう門扉と塀を、この目で見ることができた (その後、これらも撤去され、現在は新しい建物が建てられている)(2023年1月19日撮影)
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森澤ネジ製作所の工場の向かいにあった久金属工業の事務所棟。現在も1934年 (昭和9) の創業当時の姿を残して営業している (登録有形文化財)。久金属工業は、創業以来、国内有名メーカーのウイスキーや医薬品、ペンキなどの缶やキャップを製造してきた (2023年1月19日撮影)
ネジ工場の発展
二度目の工場が運転を開始すると、信夫はネジ製作機の改良や発明を再開した。
「世間一般のひとから見ると、私はちょっと変わっているのかもしれないと自分でもおもう。しかし私は、いつの時代でもどんなものでも、つねによい製品をつくり出すことに全精力を傾けたいのだ」
信夫の人生は、その繰り返しだった。
信夫が改良・開発をした機械で生産されるネジは、以前にも増して優秀だった。
ある日、名古屋のトヨタ自動車の人が、下請けメーカーの調査で大阪にやってきた。信夫の工場にも来訪し、製品サンプルを持って帰った。
ほどなくして「品物がよいので、注文したい」と連絡が入った。当時のトヨタは、まだ月産数千台ぐらいの規模であったが、自動車メーカーから注文が入るとは大したことだ。信夫は喜んだ。仕様書を受けてさっそく生産に取りかかり、念入りにつくった製品を納めた。信夫のつくるネジの6割は、トヨタ自動車に納品するようになった。1939年 (昭和14) のことだ。
トヨタは、信夫のネジを当時の相場の倍の価格で引き取ってくれていた。あるとき信夫は、トヨタ自動車をたずね、「この価格では私が儲かりすぎる。値下げしてもらえないか」と直談判した。対応した購買課の平野平四郎は、おもわぬクレームに狐につままれたような顔をしていたが、われに返ってこう言った。
「当社のそろばんで立てた値段を払っているのだから、値段を変えるわけにはいかない。高くしてくれという申し入れはあるが、安く買ってくれなどと言ってきたのは、きみが初めてだ」
申し出が聞き入れてもらえず、信夫は平野とケンカして帰った。
そんなこともあったが、森澤ネジ製作所は順調に業績を伸ばしていった。トヨタ自動車の注文は材料支給で加工賃も高かったので、経営は安定していった。
1938年 (昭和13) 末ごろからは、信夫は大阪鉄製磨ナット工業組合 (現・大阪磨ナット工業協同組合か?) の理事や副理事長をつとめるなど、業界全体の技術向上にも力を尽くした。1940年 (昭和15) には、合資会社森澤精螺製作所に組織を改編した。
工場は順調に発展し、経済的な余裕ができてきた。信夫は1934年 (昭和9) に津守ネジ製作所を始めたときから、津守のちいさな四軒長屋で親子4人で暮らしてきたが [注5]、1940年 (昭和15) 11月15日に三男・季公生 (きくお) が生まれてさすがに手狭になり、兵庫県明石市人丸町の妻の実家の近くに、自宅を新築した。このころは、信夫にとって経済的にめぐまれた時代であった。
つぎつぎに特許を取得
1942年 (昭和17) 、信夫はネジ製作機の発明に対し、大阪府から3,000円の発明奨励金を受けた。発明したのは、従来4工程かかっていたものを1工程に縮める精密ナット自動製造機だ。精密ナット類は従来、切断、孔あけ、ねじ切り、仕上げの4工程が必要で、工員3人がかりで1日500個の生産量だった。ところが信夫が発明した機械を導入すれば、切断、孔あけ、ねじ切り、仕上げを一気に自動的におこない、1時間に180個の生産が可能になるというものだ。しかも工員はたった一人で済むので、大幅な効率化を実現できた。[注6]
さらに信夫は、ネジ製作機に関する特許と実用新案をいくつも取得した。
- 第257705号 (詳細不明)
- 第142375号 「ナット」自働仕上機 特許権者 (発明者) 森澤允雄
出願1939年5月17日、公告1940年11月28日、特許 1941年3月10日 - 第169823号 「ナット」自働螺子切り装置に於ける「ナット」脱却装置 特許権者 (発明者) 森澤信夫
出願1943年7月31日、特許1945年2月4日 - 第170204号 ナット溝割機 特許権者 (発明者) 森澤信夫
出願1944年3月16日、特許1945年4月21日 - 第170205号 ナット溝割機に於ける被溝割ナット取着装置 特許権者 (発明者) 森澤信夫
出願1944年3月16日、特許1945年4月21日 [注7]
信夫は当時を振り返る。
「ネジ業界も、終戦後には急速な進化を遂げていったが、私がこの仕事をはじめたころから終戦までは、製作機械、技術ともにまだ未熟だった。これは私にとってたいへん幸運なことだった」
信夫はまた、工場設立にあたって恩義を受けた久金属工業のために、いくつかの機械を設計した。最初に設計したのは、上山ペルメル共同商社の家庭常備薬「ペルメル」の缶をつくる機械だった。
つぎに手がけたのは、スモカ歯磨の平たい丸缶をつくる自働機だった。この機械はすごい性能で、それまで男子5人でやっていたのと同じ仕事量を、女子工員1人でこなせるようにした。
つづく交流
ネジ製造にたずさわっていたあいだも、信夫の頭から写真植字機のことが消えることはなかった。頭が休まると思い出す。時間ができるたび、信夫は東京の茂吉のもとをたずねた。
茂吉は写真植字機に多少の改良を加えていたが、注文は依然低調で、くらしは楽ではないように見えた。しかし機械が売れると「写真植字機の特許料だ」といって、たびたび500円ずつ信夫に送ってきた。
ケンカ別れのようにして写真植字機研究所を飛び出してしまった信夫だったが、茂吉と信夫ふたりの交流は、家族ぐるみのつきあいとして互いに行き来する仲で、その後も続いていたのだった。[注9]
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1940年 (昭和15) 、信夫のネジ工場で撮影された写真。左から、石井裕子 (茂吉三女、1926年生まれ) 、森澤重子 (信夫妻、1906年生まれ)、森澤公雄 (信夫長男、1932年生まれ) 、石井千恵子 (茂吉二女、1920年生まれ。のちに結婚して三好千恵子) 、森澤嘉昭 (信夫二男、1935年生まれ)
(写真提供:モリサワ)
(つづく)
出版社募集
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雪 朱里 yukiakari.contact@gmail.com
[注1] 久庄次郎は、1886年 (明治19) 年11月2日、大阪市生まれ。1934年 (昭和9) 、大阪市西成区津守町に久金属工業を設立した。久金属工業は、アルミニウム缶や印刷缶、各種の金属製容器の製造を手掛ける会社だった。
帝国秘密探偵社 編『大衆人事録』第12版、帝国秘密探偵社、1937.p.159、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3049247/1/970 (2024年10月17日参照)
日本商工会 編『商工業者名鑑 大阪府』、商工通信社、1936 p.97、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1120918/1/62 (2024年10月17日参照)
[注2] 福田専蔵は1892年 (明治25) 12月、大阪生まれ。三井物産勤務後に独立し、1935年 (昭和10) 福田製鋲所を設立。同社は当時、敷地1,050坪の工場に大小の機械100余台を据え付け、大量生産をおこなっていた。
帝国秘密探偵社 編『大衆人事録』第12版、帝国秘密探偵社、1937 p.164 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3049247/1/973 (2024年10月17日参照)
『工業人名大辭典』滿蒙資料協會出版部、1939 p.158 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1085934/1/836 (2024年10月17日参照)
[注3] 津守工場の元所有者について、馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 p.134 には〈久は久金属工業の前にあった石川郁次郎所有の元茨木ペイント工場建物百五十坪を借りてやる〉とある。しかし「石川郁次郎」で国会図書館デジタルコレクションにて調べたところ、正しくは「石川郁二郎」であり、彼の経営していた会社は「茨木ペイント」ではなく「岩城塗料製造」であったことがわかった。かつ、岩城塗料製造が同地 (大阪市西成区津守町) に工場をもっていたことも確認できた。
※石川郁二郎についての参考資料はおもに「石川郁二郎」伊東敦好 筆者代表ほか『塗料人評傳』關東之巻、日本塗料協會、1942 pp.25-28 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1901252 (2025年1月20日参照) ※なお、同書では見出しの石川の名が「郁二郎」ではなく「郁次郎」になっている
※岩城塗料製造の会社情報、津守工場の所在地については、おもに塗工之魁新聞社編『塗料年鑑』昭和11年版、塗工之魁新聞社、1936 (昭和11) p.621 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1246353 (2025年1月23日参照)
[注4] 「株式会社モリサワ津守工場の歴史」モリサワ (本社展示資料)より
[注5] この四軒長屋の住所は不明
[注6] 発明奨励金の金額については、馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 p,135を参照。奨励金を受けた発明の内容については、日本工学会 編『工学と工業』11(4)(103)、龍吟社、1943年4月 p.35 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1475956 (2025年1月20日参照) を参照した
[注7] 特許情報プラットフォームで検索 https://www.j-platpat.inpit.go.jp/ (2024年10月17日参照)
[注8] スモカ歯磨の歴史 | スモカ歯磨ウェブサイト https://www.smoca.jp/blog/?p=31 (2024年10月17日参照)
[注9] 本稿は森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 pp.23-25、馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 pp.133-136、産業研究所編「世界に羽打く日本の写植機 森澤信夫」『わが青春時代(1) 』産業研究所、1968 pp.237-239、「株式会社モリサワ津守工場の歴史」モリサワ (本社展示資料) をもとに執筆した
【おもな参考文献】
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
産業研究所編「世界に羽打く日本の写植機 森澤信夫」『わが青春時代(1) 』産業研究所、1968
「株式会社モリサワ津守工場の歴史」モリサワ (本社展示資料)
帝国秘密探偵社 編『大衆人事録』第12版、帝国秘密探偵社、1937
日本商工会 編『商工業者名鑑 大阪府』、商工通信社、1936
『工業人名大辭典』滿蒙資料協會出版部、1939
【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影