森山大道氏の写真は"アレ、ブレ、ボケ"と形容される。ハイコントラストで粒子の粗い写真表現は、60年代・70年代の日本の写真界に大きな影響を与えた。森山氏は「写真とは何か」を問い続け、極限まで写真表現を突き詰めていく。今回はデビュー写真集『にっぽん劇場写真帳』から、『写真よさようなら』を出版するまでの軌跡を辿っていこう。

プロヴォークII 1969年

多くの人にショックを与えた60年代

1960~70年代にかけて、森山大道さんは写真界の大スターだった。そして、今までの日本の写真家のなかで、もっとも作品の評価が分かれる一人でもあると思う。デビューした時から、森山さんの写真に拒否反応を起こした人は、「こんなの写真じゃない」って全く受け入れなかったし、同時に若い人たちにとってはカリスマ的な写真家だった。デビュー当時には「森山大道問題」みたいなものがあって、従来の写真界は森山的な"アレ・ブレ"写真に対する拒否反応がものすごく大きかった。その中で自分の写真を作り続けて、世の中を認めさせたことは、ものすごくストレスも大きかっただろうし、大変だったと思うよ。

森山さんは1965年の6月に、当時勢いのあった『カメラ毎日』の編集者 山岸章二に写真を持ち込み、その場で9ページの掲載を決める。その後『カメラ毎日』や『アサヒカメラ』などで多くの作品を発表していった。中でも『カメラ毎日』に連載してた「にっぽん劇場」シリーズをまとめたデビュー写真集『にっぽん劇場写真帖』(1968年)が、写真界に与えた衝撃はすごく大きかった。この頃の写真は、真っ黒と真っ白のハイコントラストだし、ブレてる写真もある。「アレ・ブレ」とか「ブレ・ボケ」と言われたわけだけど、決して美しい写真とは言えないね。賛否両論があったけど、強い衝撃を与えたことは間違いない。森山大道という写真家が、世の中の写真の考え方を根本から変えてしまったんだ。

森山さんのような粒子が粗くハイコントラストの作品は、以前にもウィリアム・クラインの『ニューヨーク』や、細江英公の『おとこと女』などがあった。しかし、彼の作品は、それ以前の作家作品とはリアル感が違う。細江の写真は芸術の世界というか、写真という作品の世界の中で成立している。しかし森山さんの写真は、現実そのものが"決して美しいものではない"ということ、そのザラザラとした手ざわりを表現している。そこにみんなショックを受けたんだと思う。その生々しいリアリティに、それまでの写真家たちはほとんど目を向けてこなかった。そこに森山さんや中平卓馬などの当時出てきた若い写真家たちがみんな気付いて、日常の風景の中にあるリアリティこそが写真のいちばん本質的なあり方だという姿勢を打ち出していった。そのことを一番具体的で説得力のある表現で提示したのが、「アレ・ブレ・ボケ」という方法論だった。だからそれに対するショックと拒否反応がものすごかったんだよね。

『カメラ毎日』1965年8月号。「ヨコスカ」が掲載された号

「ヨコスカ」。これを機に雑誌の仕事が増えはじめる

森山大道に対する周囲の反応

森山さんの写真は、何が写っているかわからなくて、気配としか言い様がないような不穏な雰囲気をつかみ取って表現している。その「何が写ってるのかわからない」ところが、その当時の『アサヒカメラ』や『カメラ毎日』の読者からすると、「こんなの写真じゃないよ!」という拒否反応を起こす一つの大きな原因だったんじゃないかな。僕の知り合いの年配のアマチュアカメラマンは、森山さんがデビューする前からずっと『アサヒカメラ』を定期購読していたんだけど、彼の写真が『アサヒカメラ』に載るようになって、一時『アサヒカメラ』を取るのを止めてしまったんだ。「あんな汚い写真が載ってる雑誌はいらん!」ってね(笑)。こういう反応は他にもいっぱいあったんじゃないかな。

いくら反発がは強かったとはいえ、森山さんは1967年に『カメラ毎日』誌に発表した「にっぽん劇場」「ACTOR・シミズイサム」という一連のシリーズを対象に、第11回日本写真批評家協会新人賞を受賞している。写真評論家が選ぶ賞だから森山さんのような新しい表現が評価されたということだろう。とにかく彼は60年代末には、当時の若手でいちばん影響力が強い写真家となっていったんだ。

デビュー写真集『にっぽん劇場写真帳』(1968年/室町書房)

にっぽん劇場 1966年

極限まで突き詰めた写真表現

1968年に中平卓馬、多木浩二、高梨豊、岡田隆彦の4人が集まって作った同人誌『プロヴォーク』に、中平卓馬に誘われて森山さんは第2号から参加する。"Provoke"というのは、"挑発する"という意味だね。森山さんは『プロヴォーク』で、中平卓馬たちと一緒にすごくラジカルな写真表現を推し進めていくんだ。「写真とは何か?」という極限のところまで突き詰めて、写真とは結局現実の複写であり、プライベートな記録であると言いはじめる。映像の世界、つまり街に貼られたポスターとか新聞とかチラシなどの写真もある種の現実であるということも言っていて、それらを複写して印画紙にプリントして並べるといったこともやっている。『プロヴォーク』の影響力は大きくて、その亜流の"アレ・ブレ"写真が氾濫するようになり、ついには広告写真にまで手法として使われるようになった。既成の写真表現を否定して"アレ・ブレ"を始めたわけだけど、後から真似する人たちからすれば、ある種のデザインのような方法論でしかないからね。

結局『プロヴォーク』は、69年に『プロヴォーク』第3号と、『まずたしからしさの世界を捨てろ』という評論集を刊行して解散することになる。解散後も森山さんは「写真とは何か?」を考え続け、1972年にその志向を極限まで突き詰めた写真集『写真よさようなら』を出版するんだ。写真を撮る行為も、まるで自分自身がカメラになったような機械的な撮り方を試行する。つまり「無意識の状態で撮影した写真も表現として認めていいんじゃないか?」ということを提示していくんだ。アナログのカメラにフィルムを入れると、最初に何枚かを空送りするでしょう? その状態で撮った写真も『写真よさようなら』には使われている。地面とか、体の一部とかよくわからないものが写っているわけだけど、そのような意識とはかけ離れた写真を写真集にまとめて、写真とは何なのかという一番の極限までやり切ってしまうんだね。そうなると逆に先が見えなくなってしまう。森山さんは全てをやり切ってしまったことで、次にやるべきことがわからなくなって大スランプに陥るんだ。

スランプの時期は、写真家としてのテンションそのものが下がっていただろうけど、写真は撮らなきゃいけない状況だったから本当に大変だったと思う。森山さんは迷いに迷って、どんどん暗室作業の方にこだわっていくようになる。この時期の作品で、ほとんどプリントワークだけで仕上げたような「桜花」というシリーズ(1972年)がある。すごく幻想的でまさに死体が根の下に埋まっているような桜の気味の悪さを的確に表現していて、僕は名作だと思う。しかし、暗室作業にこだわりすぎてしまうと、彼が感動した現実の手応えがどんどん消えていってしまうんだ。自分と現実世界の間に薄い膜がかかったような時期が続いていて、そのときは鬱病の一歩手前で、一時体重が40kg台まで落ちたらしい。本当に精神的にも肉体的にも崩壊寸前のところまで追いつめられていたんだ。

結局スランプは70年代いっぱいと、かなり長く続くことになる。森山さんの70年代は、ワークショップ写真学校の講師(1974~76年)とか、2枚の写真を並べて構成する『遠野物語』(1976年)を発表したりとか、いろいろな活動はしているけど、あまり手応えは感じなかったんじゃないかな。60年代の終わりに写真界の旗手として持ち上げられて、彼にとっては空虚な名声を得たことに対する反動だったのかもしれないね。

『プロヴォーク』 映像によって新しい言葉や思想を触発しようとした同人誌。写真そのものを解体しようと試みた

『プロヴォーク』第3号より 森山大道

『写真よさようなら』(1972年/写真評論社)

飯沢耕太郎(いいざわこうたろう)

写真評論家。日本大学芸術学部写真学科卒業、筑波大学大学院芸術学研究科博士課程 修了。
『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書)でサントリー学芸賞、『「芸術写真」とその時代』(筑摩書房)で日本写真協会年度賞受賞。『写真を愉しむ』(岩波新書)、『都市の視線 増補』(平凡社)、『眼から眼へ』(みすず書房)、『世界のキノコ切手』(プチグラパブリッシング)など著書多数。「キヤノン写真新世紀」などの公募展の審査員や、学校講師、写真展の企画など多方面で活躍している。

まとめ:加藤真貴子 (WINDY Co.)