少し前に「氣づき」など「気」をわざわざ「氣」にしている奴は何か嫌なので、距離を置くようにしている、という意見がよく見た。

私がその意見をよく見たのはもちろん「X」である。

確かにXは「どれだけ言葉で運気を下げられるか」を競う場であり、前向きな言葉で人々をチアするより、「そんなことを人に向かっていうかね」と震撼させた方が勝ちの世界でもある。

よって「氣」否定はXでは賛同者が多かったが、これも外から見ると「そんな小さなことで人を判断し関係を切るなんて」と恐怖されるムーブだったのかもしれない。

小さな違和感、ミステリー小説では見逃すと死ぬ

しかし「小さな違和感」がバカにできないのも事実である。最初に感じた小さな違和感を無視してつきあった結果、結局でかい齟齬でダメージを食らった上に関係が切れる自体になりがちだ。

そういった「ノリが違う」人間同士が、極力関わり合いを避け、森とタタラ場に分かれて暮らすというのは大事なことである。

気づきを「氣づき」にするだけで、我々クライモリの住人たちが「タタラ場の連中だ逃げろ!」と森に逃げ帰れるのはむしろ親切であり、タタラ場の人間にとっても、合わない人間が言葉一つで勝手に慄いて自分の周りから消えてくれるのは便利であり、「氣」の効果が早速でているとさえ言える。

よって、氣づきの人たちは、合わない人間たちの難癖などには動じず、どんどん己が良いと思った言葉を使ってほしい。それが魔除け効果になるし、住み分けに繋がり、結果的に双方のためにもなる。

  • ヤムチャの氣が消えた……無茶しやがって

    ヤムチャの氣が消えた……無茶しやがって

ところで、なぜ「氣」が危険ワードとされたかといいうと、これを使うのは「スピ傾倒」だとされたからである。

スピとは「スピリチュアル」のことであり、そもそもスピリチュアル系自体が「よくわからないが避けた方がよさそうなもの」とされがちであり、よくわからない人が使いがちなよくわからない言葉が「氣」なのだそうである。

確かに、よくわからない赤いボタンをよくわからないまま押すとでかい音がなったり、どこかが爆発したりと、大変なことになりがちなので、「よくわからないものは避ける」という判断は正しい。

しかし生きていれば「もはや神頼み以外できることがない」という状況が週一で訪れるのも事実だ。例え根拠のない願掛けであっても、それで本人の気持ちが上がるのであれば否定すべきではないし、むしろ気の変換を5回多めにするだけで気分が上がるなら安いものだ。

だがスピ系が危険視されるのは、個人の思想だけで終わらせとけばいいのに、一部に周囲を勧誘したり思想を押し付けたりする人間がいるからである。

確かに「今週末は遅ればせながら地面師を一挙視聴や」と思っているところに「とても感銘を受けるセミナーがある」と誘われるのは嫌だし、具体的なアドバイスが欲しい相談に対し、一言目が「宇宙」だった時の虚脱は宇宙レベルだろう。

しかし、これはスピリチュアルに限ったことではない、むしろ相手の興味を無視して一方的に喋りつづけるという行為はオタクの方がやりがちだったりする。

だが本人に押し付ける気持ちはなくとも、スピに対するイメージからそれっぽい発言をしただけで「自分も勧誘されるのでは」と警戒されがちなジャンルになってしまっているのも確かだ。

それで全ては判断できないけど、第一印象は大事よね

どちらにしても、個人や思想を同じくする者同士だけでやる分には無害であり、逆に森から一歩も出ずに想像でタタラ場の悪口を言っている奴の方が陰湿とも言えるが、「会社」がタタラ場であることに気づかず入ってついていけなくなるケースもあるらしいので、個人はともかく組織の思想に警戒するのは大事である。

森の住人が警戒する求人ワード第一位と言えば「アットホームな職場」だが、他にも「人財」など、ブラック企業が好んで使いがちな警戒ワードが存在するようで、それこそ「氣」などの言葉による運気上げを好んでいた社長が、それ系の社員ばかりを採用したが、みんな経歴詐称ですぐいなくなった、という報告例もある。

求人情報のみで会社の全てがわかるわけもないが、逆に求人という少ない情報だけで違和感を出せる、というのはタダものではない。

仮に世間的に良い会社であっても自分に合わなければ良い会社ではない。自分が入る組織やつきあう人間に関してはある程度「直観」を信じた方がいいだろう。

私がネガティブな言葉ばかり使うのも、運気をできるだけ下げて人生に挑もうという縛りプレイをしているわけではなく、ネガティブな言葉を使った方が精神が安定するからであり、ある意味「氣づき」を使うのと同じなのだ。

言葉選びに人間性が出るというのは事実であり、それで全てを判断することはできないが、判断基準の一つになるのも確かではある。

ちなみに「氣」に関しては、「でも氣志團も氣だし」という流れで落ち着いていたので、森の住民は言葉遊びやそれをする人間は嫌いだが、氣志團のことは好き、ということもわかった。