少し前に某タクシー会社が自身の公式Xに「うちの女性ドライバーは全員20代でかわいい」という旨のポストをして大炎上していた。

一見ポジティブな内容であり、投稿した当人も全く悪気なく、良かれと思ってつぶやいたであろうことが良くわかる。

何が問題かというと、まず若くてかわいい女性ドライバーばかりと聞いて良からぬ考えを持ち、狙って乗車する者が現れるかもしれない防犯上の問題がある。

そして、タクシー業務に性別、年齢や容姿は関係ないのにそれを取沙汰するということは、同社にそれらに関する差別意識があるということ、さらに「若くてかわいい」ことを良いことだと思ってポストしているというなら「BBB(ブスババアはBAD)」と思っていることの裏返しであり、強烈な「ルッキズム」であるとされたのだ。

このように現在、見た目で判断差別する「ルッキズム発言」は炎上の火種どころか火の玉ストレートと化している。

人類はルッキズムもケッツズムも捨てきれないようである

単にデブ、ブス、ハゲなど見た目に関する悪口が悪いというだけでなく「顔が可愛い」「スタイルが良い」「その美しい偏平足で顔面を踏んでいただけませんか」など、例え褒め言葉のつもりでも、生まれつきの身体的特徴について言及すること自体が憚られつつあるのだ。

しかし、人間は判断のほとんどを視覚に頼って生きており、視覚情報で判断するなと言われたらまっすぐ歩くことすら難しくなる下等生物である。

おドッグ様のように「ケツの匂いで雌雄を決する」など、人間が生物的進化をしない限り「見た目で判断」をやめることはできないだろうし、そうなったとしてもケツの匂いで差別をする強烈なケッツズム社会が生まれるだけだ。

動物界でもマウントや差別はあるのだから、それより劣った人間が差別心を完全になくすのは無理だろう。

だが、見た目で判断することをやめるのは難しいが、生まれつきの顔面構造や体形ではなく、身だしなみや所作、袖にカピカピの米粒の有無など「人となりが反映されている見た目」に判断基準を変えることは意識すれば可能である。

また、身体的特徴で差別を受けたという経験者が減ることにより、世界から顔や体の見た目を良くしなければいけない、という脅迫観念も徐々になくなっていくはずである。

しかし、そう簡単になくなるものでもない。

確かに、太った薄毛の人を前に「デハゲですね」など、カフェインレス飲料みたいなことを声に出していう奴は減った。

だが、声に出さなくなっただけで、やはり太った人を見れば太っていると思うし、何より自分自身が鏡を見て「この顔は社会に対するドレスコードに引っかかっているので外に出たくない」と思うことはやめられないのである。

「他人はそこまでお前のことを見ていない」

冷たい水を下さい、と所望されたわけでもないのに、見た目に気を使う人間に対してこのような冷水をかける人は多い。

しかし、冷たい水を求めてないということは、できたら愛してくださいなどと「他人からの愛」も求めていないのだ、一体アゲハ構文から何を学んできたのだ。

確かに、他人は言うほど自分を見ていないのだが、自分は自分を一生見なければいけないのだ。

見なければいいと思うかもしれないが、むしろ鑑や現実から目を背け、スマホばかり見ている人間ほど、画面が暗転するたびに一番バッドルッキングアングルな自分の顔を見ており、その度に自己肯定感が下がるという悪循環なのだ。

一生見続けなければいけないものなのだから、少なくとも視界に入ってテンションが下がらない自分でいたい、という気持ちを消せと言ってもむずかしい。

よって現在も、美を追求する人間は多いし、それを後押しする情報や商品も増える一方だし、他人の目を気にしているわけではなく、自分のためにやっていると言われたらそれを止める理由はない。

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だが、一過性の美のために「健康」を犠牲にしてしまったり、美が欲しい人間をターゲットに健康上問題がある商品が流通してしまうという、という問題も未だ発生し続けている。

現在、糖尿病の治療薬がダイエットに効果があるとして美容業界で需要が高まっているそうだ。

効果はあるようだが、糖尿病ではない健康な人がこの薬を使用した際の安全性が立証されておらず、様々な病気のリスクを高める恐れがあるとして注意がなされている。

またダイエット需要が高まったことにより、糖尿病患者への供給が不足するという本末転倒も起こっているようである。

しかし、美容など本来の目的外の使用で薬が流通して健康被害が起こったり、薬が不足に陥り、最終的に薬自体が規制されてしまうということは決して珍しいことではない。

それぐらい人間の美への執着は根深いのである。

「勝利を捨ててまで長生きしたいか」というバキシリーズの名言があるように、自分を嫌いなまま長生きするのは辛く、美しくなって自分を好きになれるなら、多少の健康被害や寿命を生贄にすることも厭わない気持ちはよくわかる。

しかし、そのようなダイエットクレイジーがいなくならないのも「美=痩」という、狭すぎる美の基準が全く変わっていない世の中のせいというのもある。

美しいことは良いことだ。

しかし美の基準が画一的だと、その枠に入ろうとして無理をしてしまう者が現れる。

「目のたるみに枯山水を感じる」など、美しさの方を多様化していくべきだろう。