アップルの音楽配信サービス「Apple Music」では、AirPodsやHomePodなどのアップル製デバイスで立体音楽体験が手軽に楽しめる「ドルビーアトモスによる空間オーディオ」(以下:空間オーディオ)に対応するコンテンツを配信しています。

今回は、ソングライターのYuto UchinoさんとベーシストのKaoru Nakazawaさんによるロックバンド「The fin.」(ザ フィン)を訪ねました。ドリームポップ/チルウェーブ/シューゲイザーなどさまざまな音楽のエッセンスを採り入れて独自の世界観を紡ぐThe fin.が、2021年秋にリリースした3枚目のフルアルバム「Outer Ego」が、ドルビーアトモスによる空間オーディオにも対応する作品として2022年6月からApple Musicで配信されています。

「Outer Ego」は筆者がイチオシしたい、いま最も空間オーディオの魅力にマッチするベストアルバムのひとつです。リスナーを360度全方位から包み込む広大な空間オーディオのキャンパスが、無限の色彩に満たされるThe fin.独自の音楽体験はどのように作られたのでしょうか。バンドのボーカリストであり、作曲から音楽制作のプロデュースまで幅広く手がけるYutoさんに語ってもらいました。

  • アルバム「Outer Ego」を空間オーディオで配信するロックバンド「The fin.」のYuto Uchinoさん(右)とKaoru Nakazawaさん(左)にインタビューしました

The fin.が考える空間オーディオの理想的な「活かし方」

Yutoさんは、The fin.の楽曲制作のレコーディングからミックスまで一人で手がけるクリエイターです。アップルのデバイスや音楽制作に関わるテクノロジーにも精通するYutoさんは、日ごろからさまざまなテック系の情報をチェックしているといいますが、この数年は「イマーシブオーディオ」というキーワードをよく目にしたと振り返ります。

「没入型の音響体験を提供するイマーシブオーディオの技術は、最初は映像に関わるものだと思っていました。ところが数年前、これは音楽体験を変えるトレンドでもあることに気づきました。2021年6月には、アップルがイマーシブオーディオ技術のひとつであるドルビーアトモスによる空間オーディオの配信を開始しました。このことをきっかけに、僕も空間オーディオでThe fin.の音楽を作りたいと思い立ったんです」(Yutoさん)

Yutoさんが最初にイマーシブオーディオによる音楽を体験した機会は、音楽家のオノ セイゲンさんが主催するサイデラ・マスタリングを訪ねた時だったそうです。

「目を閉じると鳥が周囲を飛ぶ森の中に自分がいるような、リアルなイマーシブサウンドを聴かせてもらいました。その時の体験が僕の期待をかなり超えていて、価値観を変えたように思います」(Yutoさん)

  • 自身の立体音楽体験を振り返りながら、「イマーシブオーディオのトレンドが音楽にも来ていることを実感した」と語るYutoさん

2021年にリリースした「Outer Ego」の全曲を、空間オーディオバージョンとしてリマスタリングする作業も、すべてYutoさんが手がけました。

「Outer Ego」の楽曲を“空間オーディオ化”する際に、Yutoさんが「気をつけたこと」をうかがいました。

「空間オーディオをギミックとして使いたくないと考えました。もともとはステレオで聴く音源として制作したアルバムの楽曲が持つ可能性を、どこまで“自然に”展開できるか、強く意識しています」(Yutoさん)

アップルによる空間オーディオのベースとなるドルビーアトモスの技術では、リスナーの周囲360度に音を「オブジェクト」として配置したり、それを自由自在に「動かす」こともできます。ただ、その効果をむやみにギミックとして多用してしまうと、通常であればあり得ない方向から楽器の音が聞こえてきたり、音楽体験が損なわれる怖さもある、とYutoさんは指摘しました。

ステレオから空間オーディオへ。作曲の概念も変わる

従来のステレオ再生と空間オーディオは、それぞれどのような特徴があるのでしょうか。Yutoさんの「視点」はとてもユニークなものでした。

「左右のスピーカーとリスナーがそれぞれ正三角形の頂点の位置関係に並んでいて、そのスピーカーがリスナーの目の前に浮かび上がらせる『大きな一枚の絵』を見るようなイメージを僕はステレオ再生に対して持っています。対する空間オーディオの体験は音楽の中に『入り込む』ようなイメージです」(Yutoさん)

空間オーディオは、音楽を作るクリエイターの感覚も大きく変えてしまうのでしょうか。Yutoさんに聞いてみました。

「そう思います。楽曲の構成や音色にも影響するだけでなく、音源をミキシングする際の手法も大きく変わるはずです。僕は、いまThe fin.の新曲を制作しています。現在の制作環境がステレオ対応のものなので、ミキシングの工程は2MIX(マルチトラックのデータを左右2チャンネルに落とし込んだステレオ音源)を最初に制作してから、続いて空間オーディオバージョンを作るという工程にしていますが、今後は最初から空間オーディオで作られた楽曲も増えると思います」

  • Yutoさんは、空間オーディオがクリエイターによる作曲のアプローチも大きく変える手応えがある、と話します

没入感が気持ちいい!空間オーディオ版「Outer Ego」の聴きどころ

アルバム「Outer Ego」の空間オーディオバージョンを制作して、Yutoさんは「空間的な表現を多く使うThe fin.の音楽が、アップルの空間オーディオとすごく相性が良いことを実感した」と目を輝かせます。

筆者も、iPhoneとAirPods Proの組み合わせと、第2世代のHomePodで「Outer Ego」を聴きました。アルバムに収録されている12曲すべてが「空間オーディオ的な聴きどころ」でいっぱいなので、聴き込むほどに味わいが深まります。

特に、筆者は6曲目の『Old Canvas』を聴いてほしいと思います。高音域から低音域まですべての音がバランスよく、広々とした空間に配置されているので、空間オーディオを初めて聴く方にもその醍醐味が分かりやすいリファレンス的な楽曲だからです。

  • 第2世代のHomePodはスピーカー単体で、Apple Musicのドルビーアトモスによる空間オーディオの楽曲再生が楽しめます

シンセサイザーとコーラスによる甘いハーモニーに包み込まれながら、空間の中心には煌びやかなボーカルの音像が浮かび上がります。タイトで躍動感あふれるベースが音楽の足もとをしっかりと支えて、空間オーディオならではの立体感をいっそう引き立たせます。

ステレオバージョンで聴くと、音楽の熱量が前面に力強く押し出してくるような醍醐味が感じられます。一方、空間オーディオバージョンを聴くと、Yutoさんの言葉を借りるならば「音楽の中に入り込み」、バンドの演奏を最も近い場所で聴いているようなリアリティが味わえます。4曲目の『Deepest Ocean』、9曲目の『Outer Ego』、10曲目の『Sapphire』、そしてストーリー性豊かなアルバムを締めくくる『Edge of a Dream』も聴き逃せません。ぜひ空間オーディオとステレオの両方を聴き比べてみてください。

ステージで聴く音楽に一番近い体験

The fin.のベーシストであるNakazawaさんにも、アルバム「Outer Ego」の空間オーディオバージョンを初めて聴いた時の印象をうかがいました。

「Yutoがスタジオでアルバムの空間オーディオバージョンを制作している時に初めて聴きました。僕たちがThe fin.の音楽をステージで演奏している時のように、ボーカルと楽器の音が四方八方から聞こえてくる臨場感に驚いたことをよく覚えています。ミュージシャンがステージで聴いている音楽を、リスナーの皆さんにも届けられる可能性を感じました」(Nakazawaさん)

  • まるでステージに立って音を聞いているような、空間オーディオのリアルな包囲感に圧倒されたというNakazawaさん

The fin.の楽曲には、たくさんの楽器による音が使われています。それぞれの楽器やコーラスによるハーモニーを、立体的な音空間の中に描く時のイメージを、Yutoさんにもっと深く聞いてみました。

「僕は音楽を聴くと、頭の中に音の『形』や『色』がぼんやりと浮かんでくるんです。作曲の始まりは、与えられた大きなキャンパスの中にさまざまな形や色の音を置いていくような感覚です。ボーカルにシンセサイザー、ドラムスなどそれぞれの音の配置が決まったら、次に専有面積を意識します。音の大きさをボリュームで考えるのではなく、例えばドラムスの低音が占めている周波数の面積というか、広さを当てはめていきます。キャンパスを徐々に埋めていくと、次第にキャンパスのトップとボトムのエンド(端)のようなものが見えてきます」

キャンパスを音で埋め尽くしたら、今度はそこに「空間」を作り、「引き算」の要領で「余白」をスケッチするそうです。Yutoさんの説明が続きます。

「ないものに対して存在を与えることはできませんが、先にありったけの音を詰め込んでからある部分を削ると、そこに空間が生まれるような感覚です。全体を見ながら、このあたりは空いていた方が気持ち良さそうなところに、わざと空間を作る場合もあります」(Yutoさん)

  • Yutoさんは、いつも音を「形」や「色」のオブジェクトとして認識しながら、空間の中に配置していくというアプローチから音楽を作るそうです。キャンパスがステレオから立体的な空間オーディオになっても、その手法がピタリとマッチしそうです

筆者は、アルバム「Outer Ego」の10曲目として収録されている『Sapphire』を聴いた時に、Yutoさんが語る「音づくりのイメージ」がおぼろげながら見えた気がします。ボーカルのまわりをたくさんの楽器の音が取り囲みながら、しっとりとした美しいハーモニーが空間に漂う楽曲。そこにはたくさんの音が埋め尽くされているはずなのに、空気感は重々しくならず、むしろ宙に舞うような心地よい浮遊感に満たされます。空間オーディオバージョンを聴くと、音と音の隙間に敷き詰められた「空気の質感」のようなものが、リスナーの耳を通して体に染み渡るような不思議な感覚も味わえました。

音楽制作にMacBook Proがフル稼働

Yutoさんは、音楽制作やその他多くの用途に14インチのApple M1搭載MacBook Proを愛用しています。IntelプロセッサのMacから本機に乗り換えてから、クリエイティブワークの効率が飛躍的にアップしたそうです。

そして、YutoさんはMacBook Proを選んだことによって、もうひとつの大きなメリットを見つけることができました。

「アーティストが制作する環境と、ほぼそのまま同じ環境で僕たちの音楽をリスナーに聴いてもらえるなんて、すごいパワーだと思います!空間オーディオの『Outer Ego』の楽曲も、僕がイメージした通りの音がMacやiPhoneとAirPodsの組み合わせ、HomePodなどのデバイスで再現されます。僕が使っているこのMacBook Proの内蔵スピーカーは音質がとても良いと思います。Apple Musicの楽曲だけでなく、Apple TV+で配信されている映像作品を見たら、空間オーディオの迫力に圧倒されました」(Yutoさん)

  • iPhoneとAirPodsによるシンプルな組み合わせで体験できるところにも、アップルの空間オーディオの魅力があります

次回作を空間オーディオで制作する際、YutoさんはMacBook Proとアップルのアプリケーション「Logic Pro」による空間オーディオ作品の制作環境を揃えて臨むそうです。

「アルバム『Outer Ego』を制作した時には、イマーシブオーディオ対応の機材が揃うスタジオを借りて集中して作業を行いました。今はMacBook ProにアップルのLogic Proを導入したので、ミックスした音源をMacBook Proの内蔵スピーカーでモニタリングができます。そして最後の仕上げとしてスタジオに足を運び、最終チェックを済ませて完成という理想的なワークフローを整えて、次の新しい楽曲制作に挑めることが今からとても楽しみです」(Yutoさん)

The fin.の二人に、次に手に入れたいアップルのデバイスを聞きました。「iPadがほしいですね。iPadにMIDIを介してつないだ楽器を弾きながら作曲をしたり、Apple Pencilで歌詞を書き留めたり、いろんな場面で活用できそうです」とYutoさん。Nakazawaさんは、現在使っているMacBook Proのほかに、最新のM2 MacBook Airをさまざまな制作用途に追加することを検討していると話しました。

これから夏を駆け抜けるThe fin.

「新曲は6月ごろのリリースを予定しています。次回作もぜひApple Musicには空間オーディオバージョンを届けたいと思っています。来年はThe fin.がファーストアルバムをリリースしてから10周年を迎えるので、『Night Time』のようなバンドにとって記念すべき楽曲を改めて空間オーディオにしてみても面白そうですね」(Yutoさん)

Yutoさんによる新曲の制作も絶好調のようですが、ライブなどThe fin.の音楽活動もさらに加速します。直近では6月3日、東京・渋谷で開催される音楽イベント「SSR2023」にThe fin.の出演が決定しています。そして、海外でのライブも本格的に再始動します。迫る2023年の夏も、全速力で駆け抜けるThe fin.の活躍から目が離せません。

  • 今年はライブも全力疾走するというThe fin.の音楽を、生演奏と空間オーディオで聴き比べてみるのも楽しいと思います