生成AIと自動化の進展により、長年SaaSの主流だった“席数課金"の崩壊が指摘されています。AIエージェントが業務の一部を代行し、従業員数と利用価値が結びつかなくなった今、SaaSはどのようなビジネスモデルへ向かうべきなのでしょうか。‌「テックトピア:米国のテクノロジー業界の舞台裏」の過去回はこちらを参照。

生産性のパラドックス

ニュースレター「2025 SaaS Crisis: Pricing Power Collapse」がテック業界や投資家界隈で静かな波紋を呼んでいます。冒頭に掲げられた一文は、その内容を端的に示しています。

「2025年は、SaaSの『シート(席数)モデル』が本格的に崩壊した年である」

長年SaaSのビジネスモデルを支えてきた「ID数(席数)ベース課金」が、なぜ今、崩れ去ろうとしているのでしょうか。その背景には、生成AIと自動化による地殻変動があります。

AIや自動化による業務効率の劇的な向上によって、ひとりで数人分の作業をこなせるようになり、従業員数=必要席数という前提が崩れ始めました。使用していない、あるいはAIに置き換えられた分のIDにまで費用を払うことへの抵抗感が高まった結果、多くの企業が「成果ベース」や「使用量ベース」の価格モデルを求めるようになっています。

「それなら、単純に契約席数を減らせばよいのでは」と考える人もいるでしょう。しかし、問題はそう単純ではありません。

AIによって効率化が進んでも、企業全体として処理すべきタスクの総量が変わるわけではなく、繁忙期のピーク対応やAIが処理しきれないエッジケースを考慮すると、企業は安易に席数(=コスト)を極限まで減らすことはできません。

そこで、獲得リード数・処理書類数などに応じて課金する「成果ベース」、あるいはAPIコール数や処理タスク数を基準とした「使用量ベース」への関心が高まっているというわけです。

変動費化することで、不要な月の支払いを抑えられるだけでなく、利用が増えた月にも費用の理由が明確になります。部門ごとのコスト按分がしやすく、ROI(投資対効果)を厳しく管理したい経営層にとって、より合理的な価格体系と言えるでしょう。

この流れを加速させているのは、AIだけではありません。近年の景気後退懸念に伴うIT予算の引き締め、そしてSaaS市場の成熟による競合激化も要因です。かつてベンダー側が持っていた「サブスクリプション価格を維持・決定する力(Pricing Power)」は弱まり、買い手優位の市場へとシフトしています。年次更新のタイミングで席数増やオプション追加による“上乗せ成長”を狙う従来の勝ちパターンは、もはや通用しにくくなっているのです。

先行するSaaSベンダーの苦悩と「幻滅」

そうした中で、新モデルへの移行を試みるベンダーも現れていますが、その道のりは平坦ではありません。

例えばZendeskは2024年、AIが自動でチケット(案件)を解決した場合に課金する成果ベース課金を導入しました。同社はこの夏、採用顧客が倍増したと報告していますが、現場では課題も浮き彫りになっています。

複雑な案件において「本当に解決されたか」の判定が難しかったり、サポート量の増減によるコスト変動が激しく、予算管理が困難になったりするケースです。

  • テックトピア:米国のテクノロジー業界の舞台裏 第50回

    Zendeskは2024年8月に「Outcome-Based Pricing」を導入。同社は、席数ベースから使用量/成果ベースへの移行が「企業のコスト構造や価値提供のあり方を変えている」という認識を示しています

同様に、Salesforceが今年5月に発表したAgentforce向けの新しい価格モデル「Flex Credits」も注目を集めました。1アクションあたり0.10ドルのというわかりやすい従量課金が特徴ですが、半年が経過してOliv.aiのブログ投稿「Salesforce Einstein Forecasting: Why CROs Pay $550/User for 67% Accuracy」のように“幻滅論"が浮上しています。

1アクションあたりの単価は安く見えても、前提となるData Cloudの利用料やアドオン費用を合算すると、結果的に高額かつ複雑な料金体系になると指摘されています。

ただ、ベンダー側にも事情があります。成果ベース課金は、ベンダーにとって大きなリスクを伴うからです。「成果」の定義は顧客によって異なり、客観的で普遍的な指標を設定するのが難しいうえ、顧客の成果に収益が依存するため売上予測が不安定になります。

成果が出なかった場合、収益ロスをベンダー側が負担することにもなり、財務戦略上の負担が大きくなります。こうした理由から、多くのベンダーは成果ベースの必要性を認めつつも、シート課金と成果課金を組み合わせた複雑なハイブリッドモデルにとどまらざるを得ないのが現状です。

  • テックトピア:米国のテクノロジー業界の舞台裏 第50回

    ポッドキャスト「BG2」で、AIエージェント時代のSaaSの役割について語るサティア氏

それでも変化の波は確実に押し寄せています。昨年末、Microsoftのサティア・ナデラCEOがポッドキャストで「SaaSは死んだ」と語ったという報道が話題になりました。

実際のところ、ナデラ氏は「SaaSは死んだ」とは述べておらず、その報道は文脈を欠いた誇張でした。同氏が語ったのは、AIエージェントが主役となる時代には、「従来型のSaaS」は崩壊しうる、という指摘です。

つまり、“SaaSが消える”のではなく“SaaSの役割と形態が進化する”という意味でした。AIエージェントが具体的な成果を直接生み出す存在になったとき、ソフトウェアは「道具」から「代行者」へと役割を変えます。

その変化は、当然ながら価格モデルの再発明も要求します。今の「SaaS危機」論の本質は、産業の衰退ではなく、この進化の過程で生じる激しい「成長痛」と言えるでしょう。

私たちは今、ツールの利用権にお金を払う時代から、AIが生み出す具体的な成果や労働力に対価を支払う時代への過渡期にいます。

どのような価値を提供し、それをどう計測し、どう課金するのか--。この混乱と試行錯誤を乗り越え、ベンダーとユーザー双方が納得できる「新たな価値の尺度」を見つけ出せた企業こそが、次のエージェント時代を定義する勝者になるのではないでしょうか。