ジャーナリズムの試練

突然であるが、賢明なる読者諸君の日々の情報のソースは何だろうか? 新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、ネット、SNS、多々あるメディアの中から常にチェックするものがあるはずである。ニュースに接する外部社会への入り口としての媒体はいろいろあるだろうが、そのニュース・ソースがどこかということを考えたことがあるだろうか? 昔気質のアナログ人間の私は断然新聞である。それも、最低2誌には目を通す。同様のニュース・ソースの情報をWebで読む場合もあるが、電車に乗っている間は新聞を広げて読むという古典的な、今となっては絶滅危惧種にカテゴリされるおやじスタイルを貫いている。新聞を読む理由はいろいろとあるが、その多くが新聞という古典メディアの使い勝手での優位性をまだ認めているからである。

米国でトランプ大統領による政権が誕生して以来、「フェイクニュース」という言葉がすっかり定着してしまった感がある。フェイクとは人をだますことであるから、「初めから人をだます目的でもって偽造されたニュース」ということであり由々しきことである。しかし、トランプ氏は既存の報道機関に対してもこの言葉を使っているので、トランプ氏にとっての"フェイクニュース"とは自分の政治姿勢を批判する報道の総称という感じもしてくる。

折しも、ロシア政府による米国大統領選挙への関与の疑いがFBIの調査対象となっている。こうした外交戦略はかなり古典的な手法であるが、今回対象になっている事件はネットの普及によりSNSなどのような身近な巨大ソーシャルメディアが利用され、明らかな意図をもって偽造されたニュースがその内容にかかわらず一瞬に拡散されたという事実が明らかになったところで大きな問題となった。ジャーナリズムにとっては大きな試練となっている。

ジャーナリズムの使命の1つに"事実をありのままに伝える"、ということがあろうが、実はこれがかなり困難な取り組みであることは想像に難くない。まず事実を確定させる必要があるし、そのためには記事が掲載される前に十分に検証する時間と作業も必要となる。その後も問題である。"ありのままに"、というのは簡単なようで非常に難しい。事実の開示の仕方に誰かしらのヒトが介在する以上、その報道には恣意的な意図が反映されるからである。編集というプロセスは報道側がある事実を通してその真実に迫ろうとする一番重要なプロセスであるし、1つ間違えれば、偏向となる一番危険なプロセスでもある。ただ"事実"は1つであるべきだが、"真実"は発信する人の見方、立場、主張によって違ってくるのは当然である。よって同じ事実に基づく報道であっても、報道には大きな違いが出てくるわけである。だから私は複数の紙面に目を通して、真実を見極める作業を行うわけである。

かくいう私も、コラムという形で自由に書かせてもらって、好き勝手なことを言っているが、できるだけ事実に忠実であろうという努力はしている。原稿は掲載前に必ず担当編集の目を通っていて、私の勘違いなどが指摘されることもしょっちゅうある。一般的に言って、我々が日々目にする記事の種類には下記のようにいろいろある。

  • プロのジャーナリストによる純粋な報道記事:この場合大きなものには記者の署名もあるしニュース・ソースもはっきりと書かれている。
  • PR記事:記事のような体裁をとっているが、内容はある団体などの意図的なメッセージが込められている。基本的に記事スペースは発信者が広告スペースと同じように買っている。
  • 広告記事:記事スペースは広告主が買い取っている。ビジュアルが多く商品の内容、効能、優位性が大げさに語られる。
  • フェイクニュース:読者をだますあらかじめ決められた意図をもってのでっち上げ記事。PR、広告とは見られないのでジャーナリストによる記事と間違ってしまう可能性がある。

SNSの巨人Facebookの憂鬱

私が通う大学の政治学の授業では、先生が授業の冒頭に簡単な質問を提示し、出席している学生はそれについてその場でスマートフォンを使って「賛成」か「反対」のどちらかの意思表明する。先生はその集計結果をその場で公表して、ランダムに選ばれた学生のところにマイクを持って駆け寄り、「あなたは賛成、反対のどちらに入れましたか? その理由を言ってください」、と聞いて回る。ちょっとシャイな学生には緊張の一瞬であるが、授業内容に即した出題で105分の長い授業の導入部としてはうまく考えたなと思う。その日は「政治とメディア」というのがテーマであった。

その時に出題された質問とは、ある全国紙新聞の重鎮の、「ニュースは十分に訓練、教育を受けた職業ジャーナリストによって書かれるべきであり、素人が裏付けも取らないでアップした記事を読んで世の中を理解したつもりになるのは危険である」との発言を取り上げ、この問いに賛成か反対か、といったものであった。果たして、学生たちは何と答えたであろうか?

結果は反対80%、賛成20%という比率であった。その後、先生が複数の学生に対して行った口頭アンケートでは、学生の多くから、新聞を読まないし既存のメディアを信用していないことが語られた。SNS、YouTubeなどのデジタルメディアへの投稿は現場の人が生で送ってくるので早いし説得力があるといった回答も多かった。

そんな現代の若者たちに最も支持されているであろうSNSメディアの巨人Facebookにいろいろな問題が浮上してきた。

  • 米国議会がロシア疑惑への追求を強め、Facebookはフェイクニュースの拡散を助長したとの批判を受けている。議会にはTwitter、Googleなどとともに呼ばれて証言を求められた。
  • 最近問題が表面化した仮想通貨の広告を禁止。しかし、広告だけを禁止しても、記事に似せた広告は未だに横行していて禁止する手立てがない。見分けがつかないのだ。
  • 読者の判断に基づいて報道機関の信頼度の格付けを行うことを発表。これには既存メディアが猛反発をしている。Facebookは既存メディアのニュースを掲載料を払わずに使用しているので、格付けを行うなら掲載料を払えということらしい。
  • 北米でのユーザー数が減少している。理由はよくわからないが、既存ユーザーの年齢の上昇も理由の1つらしい。Facebookより魅力のある新興メディアが出ているのだ。

Facebookの若きCEOザッカーバーグ氏の信頼の拠り所となっているのは"ユーザーは賢い"というもので、自浄作用によって有害なものは自然と淘汰されるものだという考えだが、果たして自浄作用が働いているとは見受けられないのが正直な感想だ。

  • 新聞の強みは見やすさと携帯性、そして廃棄のしやすさ

    新聞は情報の一覧性という意味での見やすさ、携帯性と廃棄のしやすさで言えば究極のメディアであると言える

古典メディアの代表格「新聞」のハードウェアとしての優位性

デジタル全盛のこの時代にあっても、おじさん世代がこよなく愛する新聞という存在の優位性について考えてみたい。新聞の発祥は古いがハードウェアとしてみた場合、多数の優位性を併せ持った媒体であると思っている。その優位性のいくつかを以下に記す。

  • 電源、ネット環境を気にしないで手軽に使える。
  • 一度に視覚的にいろいろな項目に目を通せるという大画面ディスプレイ方式。しかも折り畳み、携帯が容易にできる。読み終わったらゴミ箱に捨てても惜しくない(Disposal Media)。
  • 自分が予期しなかったような別の記事が載っている。通常の自分の興味では目のいかない分野の記事も視覚に飛び込んでくる。これが興味範囲の拡大につながる。ちょうど、本屋に寄った時の"今はどんな事柄が人気なのかな"、といった期待感に似ている。
  • 専門用語、ややこしい事情などにはその都度用語説明、解説などが記されている。
  • 見出しの大小でニュース自体の重大性に大体の見当がつく。

ハードウェアとしての弱点はリアルタイム性に欠けるのと情報量あたりの単価が高いことであろう。学生たちが手を出せない理由の1つもここにあるだろう。そのため、流通経路の統合化を図るなどして低価格化ができないのだろうかといつも思う。皮肉なことに、もっともアナログな存在がデジタル化が進む社会で求められる自ら考え行動することができる"賢いユーザー"を育成するに一番適したハードウェアなのではないかと思う。