古い話になるがタイガー・ジェット・シンというインド出身のプロレスラーがいて、日本ではヒール(悪役)として大変に人気があった。“インドの虎”という異名を持つシンはいつも凶器を隠しもち、サーベルを持って登場する姿はいかにも凶悪なレスラーのようだったが、実は篤実な人物で、しかも大変な親日家であるらしいという記事を新聞の記事で読んだことがある。

ここでなぜ突然タイガー・ジェット・シンかと言うと、私が現在聴講する大学の科目が「インド社会」である事と、最近の半導体関連記事でインド政府の動きが報道されたのを目にしたからである。

私自身のインド体験は、AMD勤務時代に米国本社で出会ったインド出身の人たちとの交流と、営業会議でAMDが開発拠点を持つハイドラバードに2度ほど行った経験があるだけだが、彼らの頭脳の良さといつも上を目指す旺盛な活力には圧倒された記憶がある。

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    インドの代表的な建築物の1つで世界遺産でもあるタージマハル

半導体の地産地消を目指すインド

インドはハイテクの巨大市場を抱えている。現在8兆円規模の5G/IoTを始めとするテレコム、自動車、防衛、宇宙開発での電子機器市場が、2025年には40兆円以上になるという予測がある。そこで消費される半導体は現在では2兆円強であるが、これが2025年には10兆円の規模に膨れ上がる。しかし、これらの半導体は現在ほぼ100%を輸入に頼っている。

今年に入ってから急速に悪化した半導体供給不足により、半導体を経済安全保障上の重要項目と位置付ける先進各国政府が巨額の補助金を提示して自国での半導体工場の建設誘致に動きだした。中国に次ぐ新興経済大国となると目されるインドも、この状況を受けて半導体サプライチェーンの強化に国家的レベルで本腰を上げる気配を見せている。

キャッシュによる補助金なのか、税制上の破格の優遇措置なのか、などの具体的なプランは明らかにされていないが、複数のメディアが近々インド政府が巨額の予算とその計画を明らかにするだろうと伝えている。すでに、計画の骨子をTSMCやIntelなどに提示しているとも報道されている。

MicrosoftやGoogleのCEOがインド系であるのを見てもわかるように、ハイテク業界で活躍するインド人は非常に多い。AMDやNXPなどの半導体メーカーはインドにデザインセンターを展開しているし、インドは世界中のITサポートを請け負う会社が拠点を構え、優れたIT人材が豊富にある。インドがIT立国として飛躍するだろうと思われる理由は以下のようなものだ。

  • 英国植民地時代を経験したインドには英語に堪能な高学歴の人材が揃っている
  • 近年アジアでの覇権国として勢力を拡大する中国に対峙できるポテンシャルを持つ民主主義国家であり、日本、米国、英国、オーストラリアなどとの関係が強い
  • 米国のシリコンバレーなどのハイテク業界に優れた人材のネットワークがすでに構築されていて、特に技術職での技能に優れ、起業家精神を持った人材が豊富
  • 平均年齢が28.4歳と成熟国と比較して格段に若い人口構成になっている

こうした好条件を考えると、インドに半導体製造の拠点が今までなかったことが不思議に思えるほどであるが、インド政府による半導体産業誘致は試行錯誤の連続であった。実際、半導体産業の勃興期にはFairchildやAMDが後工程工場を建設する計画があったが、これらの多くは結局マレーシアやタイといった東南アジアの国々に落ち着いた。政府の肝入りにより設立された半導体開発会社SCL(Semi-Conductor Laboratory)は今年で設立15周年を迎え、その間に何度か製造工場の設立への模索がなされたが、現在では限られた品種の回路設計に活動が限られている。

今回の世界的な半導体供給不足の事態を受けて、インドのModi首相直轄のプロジェクトとして期待される半導体工場誘致プランは、欧米のハイテク巨大企業にとって戦略的な意味を持つ可能性がある。

その背景にあるのが「China Plus One」戦略だ。俗に“プラスワン”とも呼ばれるこの考え方は、最近加速的にに先鋭化する中国の覇権追及に対し、巨大市場に成長した中国だけに投資を集中させる地政学上・ビジネス上のリスク分散の有効な方法として、先進各国と巨大グローバル企業によって強く意識されるようになった。人件費の増加によるオペレーションのコストアップ、共産党政府による規制統率が予測不能な現在の状況にあって、将来巨大市場となると考えられる民主主義国家としてのインドにはおのずと注目度が上がってくる。

意外と知られていないインド社会の様子

“インド”という国名を聞いて一般的な日本人の頭に真っ先に浮かぶのは、日本でもすっかり食文化に同化したカレー、ヒンドゥー教、ガンジス川などであろうか。

しかし、欧米ビジネス界がインドに注目するのは、世界で中国と肩を並べる14億人とされる人口であろう(世界統計上は中国と同じだが、実際はそれ以上になっているという話もある)。その人口構成は、2020年時点の平均年齢は28.4歳と中国の38.4歳と比べて格段に若い(因みに日本は48.4歳)事もその将来性を充分にうかがわせる。しかも、一党独裁の中国と違って民主主義国家であり、英語の識字率が高い高学歴層がしっかり定着している。

「ゼロの発見」で日本の小学校の教科書にも登場するインドは数学、理工系に強い国民性のイメージが強い。確かに、私が半導体ビジネスでの経験で出会ったインド人たちは皆優秀で、成功への活力に満ちていた。しかし、実際にインドに行ってみるとその優秀なエリート達が躍起になって働いているビルの外側には、極端な貧富の差が明らかに感じられる地域も多くあり、その強烈なコントラストにカルチャーショックを受けた憶えがある。現在聴講しているある大学の「インド社会」の講義では、法律上は廃止されているカースト制度が現在も社会生活の多くの場面で厳然として存在している事や、これが民主国家かと問いたくなるような男女の不平等がある現実を知らされることとなった。

インドのこれから

米中の覇権争いが激化する中で、Modi首相が率いるアジアの巨大民主国家インドには、確かにまだ広く認識されていないビジネスポテンシャルがあるように思える。

米中がつばぜり合いを繰り広げる中、核保有国の1つでもあり宇宙開発にも実績を上げているインドは、技術覇権競争の中心にある半導体産業の自国強化によって、地政学上の重要拠点となる可能性を秘めている。