人類初の宇宙飛行士ユーリィ・ガガーリンと、彼が乗った宇宙船「ヴォストーク」が宇宙を飛んだのは、いまから60年前の1961年4月12日のことだった。その伝説はいまなお色褪せることなく、宇宙を愛するすべての人々の胸に焼き付き、その情熱を鼓舞し続けている。

はたしてガガーリンとはどのような人物だったのか。なぜ彼が人類初の宇宙飛行士に選ばれたのか。そして前人未到の宇宙飛行はどんなものだったのか。彼の伝説を振り返ってみたい。

  • ガガーリン

    人類初の宇宙飛行に飛び立つ直前のユーリィ・ガガーリン。宇宙服を着込み、バスで発射台に向かっているところ。後ろにはバックアップを務めたゲールマン・チトーフも写っている (C) NASA (public domain)

ガガーリンとスプートニク・ショック

ユーリィ・アレクセーエヴィチ・ガガーリンは1934年3月9日、ソヴィエト連邦(ソ連)の西部、ベラルーシとの国境に近いグジャーツク近郊のクルシノという村に生まれた。4人きょうだいの3番目で、両親は集団農場で働いていたことから、姉が親代わりだった。

第二次世界大戦中の1941年には、この一帯はドイツ軍に占領され、一家は家から追い出され、きょうだいとも離れ離れになり、学校も焼き払われるなど、つらい少年時代を送ることになった。

1943年には、ソ連軍が奪還。戦後には一家は再会でき、グジャーツクに移り、ガガーリンも満足に学校に通えるようになった。大戦中の混乱が尾を引き、十分な教育は得られなかったが、元軍のパイロットだった人物が教師としてやってきたことが大きな契機となった。ガガーリンはもともと航空機、そして科学と数学を好んでおり、元飛行士の教師はそれを詳しく教え、やがてガガーリンは模型飛行機にも熱中するようになった。

1950年、16歳のガガーリンは鋳物職人の見習いとなり、職業学校において金型製作と鋳物加工の分野で優秀な成績を収めた。さらに同校の飛行クラブにも所属し、軽飛行機の操縦も学んだ。

1955年、学校を卒業した彼は空軍の学校に入り、MiG-15戦闘機のパイロットになる。そして、この地で知り合ったヴァレンティーナと結婚した1957年、歴史的な大事件が起こる。

1957年10月4日、ソ連は世界初の人工衛星「スプートニク」の打ち上げに成功。さらに、そのわずか1か月後の11月3日に、2機目の衛星「スプートニク2」を打ち上げた。

当時、核・ミサイル開発をめぐって競争していた米国は、技術的に先を越されたことに驚愕。その衝撃は「スプートニク・ショック」として、教科書にその名が刻まれるものとなった。

そして米国も、年が明けた1958年1月31日、ようやく初の衛星「エクスプローラー1」の打ち上げに成功。こうして、米ソの熾烈な宇宙開発競争の火蓋が切って落とされた。そして、次はどちらが先に人間を宇宙に送り込むかというレースが始まったのである。

  • ガガーリン

    史上初の人工衛星スプートニク。この打ち上げ成功が米国に与えた衝撃は「スプートニク・ショック」と呼ばれる。そして翌年には米国の衛星の打ち上げに成功。宇宙開発競争が始まった (C) Roskosmos

宇宙飛行士への道

ソ連における有人宇宙飛行の可能性についての模索は、1959年の初め、ソ連科学アカデミーで始まった。

そして同年8月、医師を中心としたチームはソ連中の航空基地を回り、航空機パイロットの中から約3000人の宇宙飛行士候補を選んだ。

米国における最初の宇宙飛行士の選抜プロセスは、映画『ザ・ライト・スタッフ』で描かれたように有名だが、ソ連においても大きな差はなく、宇宙飛行士にふさわしい人間を検討した結果、どちらもパイロットから選ぶのが最適という結論に行き着いた。

一方で大きな違いはその年齢である。米国はパイロットとしての技量を重視した結果、学歴や飛行時間に長けた、30代の熟練パイロットが選ばれた。対してソ連は、技量や学歴よりも体力や健康面を重視し、ほとんど20代だった。

この差は両国の宇宙船の設計思想にある。米国の宇宙船は、搭乗者が主体となって操縦できる機体、つまりパイロットありきの設計だったが、ソ連は無人機としてすでに完成された船に人間がお邪魔するような、すなわち人間が乗ろうが乗らないが飛ばせる設計だったのである。

また、当時ソ連の宇宙開発を主導していたセルゲーイ・コロリョーフは、宇宙飛行士の選定にあたり、体重は72kg以下、身長は1.70m以下という条件をつけた。これは、当時開発中だった宇宙船の大きさを考慮したものだった。

この約3000人の中のひとりにガガーリンもいた。このころガガーリンは、すでに空軍の学校を卒業し、ムルマンスク州のルオスタリ空軍基地に配属。1957年11月5日にはソ連空軍の中尉となり、1959年11月6日に上級中尉に昇進していた。

審査を経て102人に絞られ、肉体と心理の限界を試す、厳しい医学テストにかけられた。有名な遠心器による耐Gテストや閉鎖環境テスト、パラシュート訓練から、映画『ザ・ライト・スタッフ』で米国の宇宙飛行士候補が受けていたような、あるいはそれ以上に奇妙なテストが行われた。

そして1960年2月25日、ガガーリンを含む20人が、宇宙飛行士候補として選ばれた。選抜に関わった空軍の医師は後に、ガガーリンについてこう評している。

「謙虚で、ユーモアが際どいものになると恥ずかしさも見せる。きわめて知的で、記憶力も素晴らしい。鋭く広範囲に目を配ることができ、忍耐強く、訓練のために入念な準備をし、天体力学や数式を簡単に扱い、高等数学にも優れている。自分が正しいと思えば、その意見を守るために積極的に主張できる。他の同僚よりも、人生というものをよりよく理解している」。

  • ガガーリン

    トレッドミル(ランニングマシン)で訓練するガガーリン (C) RGANTD via Roskosmos

ソチ・シックス

1960年5月には、訓練や準備を加速させるため、20人の中から少数精鋭部隊を編成することになった。

選ばれたのは、アナトーリィ・カルタショーフ、アンドリアーン・ニコラーイェフ、パーヴェル・ポポーヴィチ、ゲールマン・チトーフ、ヴァレンティーン・ヴァルラーモフ、そしてガガーリンの6人。彼らは、米国の「マーキュリー・セヴン」になぞらえ、「ソチ・シックス」とも呼ばれる。

彼らは当初、モスクワ市内にあるフルンゼ中央飛行場で生活をしていたが、6月にはモスクワから約40km離れた場所に新設された訓練施設に移動した。これが現在の「星の街」にある「ユーリ・ガガーリン宇宙飛行士訓練センター」の始まりである。

しかし、宇宙への道は一筋縄ではいかなかった。星の街での訓練が始まった間もない7月には、カルタショーフが訓練中に、またヴァルラーモフは休暇中にそれぞれ怪我をし、6人のグループから外されることになった。その結果、ヴァレーリィ・ブィコーフスキィ、グリゴーリィ・ネリューボフの2人が加わった。

さらに、悲しい事件も起きた。1961年3月23日、ソチ・シックスには選ばれなかったものの、20人の宇宙飛行士候補の1人だったヴァレンチーン・ボンダレーンコが訓練中の事故で死亡した。圧力を下げられ、代わりに酸素濃度が高められた無音部屋で、10日間孤独に過ごす訓練を終えて、ようやく外に出ようとしていたときのことだった。

彼は体に貼り付けられていたセンサーを取り外し、その痕をアルコールを含ませた脱脂綿で拭き取った。その脱脂綿をうっかりポイッと投げ捨ててしまった。脱脂綿はヒーターの上に落ち、燃え出した。炎は酸素を多量に含んだ部屋の中でたちまち燃え広がり、ボンダレーンコを包み込んだ。助け出されたとき、彼はまだ息はあったが、その日のうちに亡くなった。24歳の若さだった。

その事故に悲しむ間もないまま、2日後の3月25日、ガガーリンら6人はカザフ・ソヴィエト社会主義共和国チューラタムにあるロケット発射場――現在のバイコヌール宇宙基地に飛び、「コラーブリ・スプートニク」と呼ばれる衛星の打ち上げを見学している。

この宇宙機こそ、ガガーリンらがいずれ乗ることになる有人宇宙船「ヴォストーク」の試験機であった。

  • ガガーリン

    バイコヌール宇宙基地を訪れたソチ・シックス。左から、ネリューボフ、ブィコーフスキィ、ガガーリン、ニコラーイェフ、チトーフ、ポポーヴィチ (C) TsENKI / Roskosmos

参考文献

Hall, Rex, and David Shayler. The rocket men : Vostok & Voskhod, the first Soviet manned spaceflights. London New York Chichester England: Springer Published in association with Praxis, 2001. ・The Vostok (3A No. 3) mission
Gagarin - Encyclopedia Astronautica
ESA - Yuri Gagarin
Remembering Yuri Gagarin 50 Years Later | NASA