世界の半導体市場を日本勢が席巻
アメリカの大統領選挙は大方の予想に反して共和党(?)のトランプ氏が勝利した。トランプ氏は保護貿易政策の擁護者である。我々はこれから自由貿易の推進者=アメリカという図式が大きく転換して行く過程を身をもって体験することになるだろう。そこでこの閑話を書くことにした。
さかのぼること30年、アメリカの大統領は共和党のレーガン氏、日本側は中曽根総理のロン・ヤスの時代だ。私がAMDに入社した1986年頃の世界の半導体市場は現在のものとはかなり様相が違っていた。その後も業界の動きは加速的に継続され、今ではファンドリーの台頭とファブレス企業の躍進、買収・合併などにより、各半導体ブランドの世界ランキングは一様には比較できなくなってしまった。グローバル化が加速した現在の半導体市場では、そもそもその企業の国籍を問うこと自体があまり意味のないことになってしまった感があるが、本稿の資料として、1987年と2013年の世界ランキングを表にまとめてみた(ほぼ私のAMDでの勤務と重なる期間)。ここでは敢えて、販売されている半導体製品ブランドでの市場ランキングをまとめてみた(ブランドでのランキングであるのでTSMC、GFなどのファンドリーで生産されたものはこのうちのブランドに含まれている)。なぜトップ10ではなく12なのかというのはご覧の通り明らかなように、12位まで入れないと我が愛するAMDが出てこないからである。
1987年 | 2013 | |||
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ランク | メーカー | 国籍 | メーカー | 国籍 |
1 | NEC | 日本 | インテル | 米国 |
2 | 東芝 | 日本 | サムスン | 韓国 |
3 | 日立 | 日本 | クアルコム | 米国 |
4 | モトローラ | 米国 | マイクロン | 米国 |
5 | TI | 米国 | ハイニックス | 韓国 |
6 | 富士通 | 日本 | 東芝 | 日本 |
7 | フィリップス | オランダ | TI | 米国 |
8 | NS | 米国 | ブロードコム | 米国 |
9 | 三菱 | 日本 | STマイクロ | 仏伊 |
10 | インテル | 米国 | ルネサス | 日本 |
11 | 松下 | 日本 | インフィニオン | ドイツ |
12 | AMD | 米国 | AMD | 米国 |
様々な統計資料を見て筆者が作成 |
この表からはいろいろなことが見て取れる。
- ここ15年くらいは、新聞記事では必ず"世界最大の半導体メーカー・インテル"、という枕詞が使われているが、私がAMDに入社した1986年当時インテルもAMDも中型規模のメーカーであった。
- 1987年で世界ランキングの金、銀、銅を占めるのはすべて日本勢である。オランダのフィリップス以外は日本か米国で占められていたのが、2013年になるとサムスン、ハイニックスなどの韓国勢の躍進が目立つ。かつて世界市場を席巻した日本勢は大きく後退している。
- 企業買収・合併が進んだおかげでブランド自体が新しいものに変わっている。よく日本の銀行の名前を"XXはXXとXXが一緒になったあれですよ"、などと説明しないと分からなくなるのと非常に似ている。
- 今年(2016年)のランキングは来年2-3月に発表されるが、また大きく変わっていることは確かだ。
日米半導体摩擦勃発、政府間の貿易問題に発展
今では考えられないことだが、半導体は日米貿易の大きな課題となっていた。もともと米国発祥のビジネスである半導体(このあたりの経緯については過去の私の記事「シリコンバレー企業の系譜」を参照されたい)はその後のコンピューター機器の発達、電子機器のコンシューマー化の波に乗り、市場が飛躍的に成長しアメリカの貿易品目の中で重要度をどんどん上げていった。また、半導体製品は軍用機器のキーパーツであったので、その主導権をどこが握るかというのは国家安全保障上大きな問題でもある。上のランキングでもわかるように1986年当時はアメリカベースのメーカーは日本勢にどんどん押されて、その首位の座を奪われてしまった。これには大きく分けて次の要因があったと私は思っている。
- 日本の半導体メーカーの優秀なエンジニアがメモリ製品を中心に微細加工と高品質を極め、アメリカ勢を上回る製造技術を確立した。アメリカ勢は日本メーカーの技術力を見くびっていた。
- 日本の半導体メーカーはその世界戦略として、コスト以下の価格でDRAM、EPROM製品を販売することにより(ダンピング)世界市場を掌握しようとした。
- 日本の半導体メーカーはNEC、富士通、日立、三菱、東芝などの垂直統合型の総合電機メーカーの半導体部門であり、半導体を使うコンピューター、周辺機器、テレコム製品、CDプレーヤー、ブラウン管テレビ、VTRなどエンド製品の市場も抑えていたので安定した成長を享受できた。結果、米国半導体製品の日本市場での市場シェアは他国と比べて著しく低い5%レベルで低迷した。
アメリカ半導体企業の危機感は大変なものであった。SIA(米国半導体協会)はワシントンに働きかけこの問題を国家間の貿易問題として取り上げさせることに成功、米国USTR(通商代表部)はこの問題をレーガン政権からの日本政府に対する正式な要求として突き付けることになった。
要求は、1)日本メーカーのダンピングを停止させること、2)日本市場での米国系メーカーのシェアを20%にまで上げること、の2点であった。この内容を盛り込んだ日米半導体協定が1986年に締結された。この20%のシェアの解釈については日本側が米国側にコミットしたという政府間での密約(サイドレター)があったとされ、その後に果てしなく繰り返された政府間、業界間の会議においてしばしば取り上げられた。私はAMDに入りたてであったが、広報の責任者も兼ねていたのでいろいろな会議に引っ張り出された。そのおかげで日米両業界の名士に接するという稀有な機会を得た。その中でも印象に残る会議は日米の業界代表がロサンゼルスで一堂に会した最初の会議で、その顛末は過去の私の記事に書いたとおりである(「海外出張の思い出:2回目の出張はなんとビバリーヒルズ」)。両業界の対立を憂えたソニーの盛田昭夫氏が両業界の代表に声をかけて実現した会議であった。 私が盛田さんを直接目にしたのはその時が最初で最後であったが、その時の盛田さんが発していたオーラは遠くからでも強烈に感じられ、思い出深い出来事として今でもありありと覚えている。
もう1つの印象深い会議、雅子様が…
その第1回の会議以降私は業界団体の会議、政府間の会議などたくさんの会議に引っ張り出されいろいろな人に会ったが、その中でも非常に印象深い会議があった。確か1990年くらいであったと思う。両国政府・業界関係者が都内の大きなホテルで集まった。いつも通り遅々として進まないUSメーカーの日本でのシェア改善についての延々とした議論の最中に、4-5人の外務省の人たちが会議場に入ってきた。その時、会場にいた米国業界の代表SIAの面々の視線が一斉に外務省の一団に向けられた。しかし、その視線の先は外務省のお偉方たちではなく、その一団の最後尾にあって静々と入ってきた女性だった。当時外務省勤務の小和田雅子さんだった。SIAの連中が会議の議題はそっちのけでざわめきだした。隣に座っていたAMDのCEOサンダースが私に聞いた"あの大変魅力的なレディーは誰なんだ?"。私はにわかには答えられず、日本政府の関係者に尋ねて合点がいきサンダースに答えた"She is Prince's fiancé"。形容しがたいその時の雅子様のオーラは今でも感覚的に憶えている。
25年以上も前の話だが、最近の報道によるとお体の具合も徐々に回復していらっしゃるとのご様子なので多少ほっとしている。
半導体の世界市場その後
その後の半導体市場は皆様がご存知の通り、未だにローラー・コースター状態である。結局日米半導体摩擦問題は1992年に米国系のシェアが20%に達し収束した。その最大の原因は、かつてコンシューマー電子機器市場で世界市場を席巻していた日本製品が世界市場での競争力をなくしたからである。急速なデジタル化に伴い、パソコンなどが登場し、世界標準に乗り遅れた日本勢が製品に使われる半導体の主導権を米国、韓国勢に明け渡した結果であろう。 今後の電子立国日本の再起を期待するものである。
著者プロフィール
吉川明日論(よしかわあすろん)
1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、今年(2016年)還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。
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