
入社直後の創業者の言葉
─ 岩谷産業は創業者・岩谷直治がいち早く水素に注目し、水素事業を手掛けてきました。改めて、なぜ、LPG(液化石油ガス)大手の岩谷産業が水素なのか聞かせてください。
牧野 当社と水素の出会いは1941年(昭和16年)です。当時、工業生産の過程で発生し、空気中に捨てられていた水素ガスに着目し、水素を販売したのが始まりなんですね。
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その後、1958年(昭和33年)に兵庫・尼崎で水素を製造する大阪水素工業(現・岩谷瓦斯)を設立しました。これは日本初の水素工場で、大阪曹達(現・大阪ソーダ)から水素をもらって、それを精製して、工業用水素として売り出した。トランジスタラジオを製造する際、水素を大量に必要とする家電メーカーへ販売し、「水素といえばイワタニ」と呼ばれるようになったのです。
─ なるほど。そういう経緯があったんですね。
牧野 ええ。わたしは1965年(昭和40年)に入社したのですが、この時、創業者が「そのうち、飛行機は水素で飛ぶぞ」と言ったんです。わたしは「え?」と。「水素で飛行機が飛ぶのか?」と思って、かなり変なことを言う人だなと思ったことを覚えています(笑)。
そういうことで、創業者は先手、先手でやれと。世の中に必要なものは何か? お客様が欲しいものとは何か? ということで、世の中に必要とされるものをつくらなければダメだという話をよくしていました。
ですから、当時を知っている者からすると、今、これだけ水素が注目されていることが、夢みたいな話だと思いますね。
─ 今から80年以上前に水素の可能性に注目したということで、創業者はかなり先見性のある人だったんですね。
牧野 本当にそう思います。
そういうことで、われわれは水素と言い続けているんですが、わたしもあまりに水素、水素と言うので、会社を一度クビになったことがありました(笑)。
─ そんなことがあったんですか(笑)。
牧野 ええ。わたしが産業ガス本部長だった時に、水素プロジェクトというのを立ち上げて、経営陣に新しい水素プラントの建設計画を申し上げました。それがあまりにしつこく言うので、会社をクビになって、関係会社に出されたのです。
それでわたしは岩谷瓦斯の社長になりまして、先ほど申しましたように、ここはもともと水素をつくっている会社ですから、ここでも同じようなプロジェクトを立ち上げて、本体がやらないのであれば自分たちでやりますと。
だから、当時の社長も焦ったんでしょうね。あいつは何を考えているんだ? ということで、たった2年で本体に戻ることになりました。