近年、プロ野球界ではデータを活用した戦略立案が主流になりつつある。その潮流の中で、組織レベルの改革に積極的に乗り出しているのが、埼玉西武ライオンズだ。弾道計測器「トラックマン」をはじめ各種測定機器を活用して選手のパフォーマンスデータを可視化。さらに今シーズンからはデータ活用の専門部署「データ戦略室」を新設し、データ活用を加速させている。

この変革を牽引するのが、球団本部 チーム統括部長 兼 企画室長の市川徹氏だ。マーケティング畑出身の市川氏は、前職のスポーツデータを扱う企業で培った経験や人脈を活かし、2016年のトラックマン導入を主導。以来、一貫してデータドリブンな組織づくりに取り組んできた。

  • 埼玉西武ライオンズ 球団本部 チーム統括部長 兼 企画室長 市川徹氏

「正しいかどうかの判断すらできない」状態から選手にデータを活用してもらうまで

ライオンズがデータ活用に取り組み始めたきっかけは、2016年のトラックマン導入だった。経験と勘を頼りに戦略を立てることが主流だった野球に、客観的な数値データの視点が入ったことで、大きな一歩を踏み出すことができた。

だが、データを取得するだけでは何も生まれない。そのデータをどう解釈し、いかに選手やスタッフに落とし込むかが重要となる。それまでデータ分析の専門的な知識や経験がなかった市川氏は、専門家など周りを巻き込む動きに出た。

「トラックマンを導入した後も、CSVデータの加工方法の検討やデータの解釈など、やるべきことはたくさんありました。ピッチングコーチに『ボールの回転数がこうなっていますよ』と伝えても、そのデータが何を意味しているのか、正しいのか正しくないのかが判断できません。知識がないので、データの見方がわからないんですよね。そこで、データ解析の専門家である早稲田大学のスポーツ科学の研究者に声を掛けて、まずはデータの意味を紐解いていくところからスタートしました」(市川氏)

加えて、選手やコーチとのコミュニケーションも課題だったと市川氏は振り返った。導入当時所属していた菊池雄星投手(現:トロント・ブルージェイズ)のように、もとからデータを積極的に活用している選手もいれば、データを提供してもあまり興味を示さないコーチもいた。そこで、元プロ選手のコーチを説得の要に据えたという。

「『データがこうなっているから、こうしてください』と選手に押し付けるのではなく、選手が納得して動けるよう、コーチに間に入ってもらいました。『(コーチの)経験的にこう思っていたことが、実際のデータにも表れているね』と、コーチの意見に説得力をもたせるためにデータを活用しています」(市川氏)

こうしているうちに投手陣からは、自身の課題をデータで振り返る動きが出てきた。「菊池投手がトラックマンのデータを活用することで、髙橋光成投手をはじめ、ほかの投手にもどんどんデータを使っていこうという意識が生まれてきました」と市川氏。投手のリリースポイントや球種ごとの球筋といったデータを起点に、投球フォーム改善のヒントを探るようになったのだ。

また、トラックマンで取得できるボールのデータは、相手ピッチャーの投球の癖も見えるようになる。そのため、打者にとっても有用だ。市川氏は「『この投手のストレートは速いが、ボールは垂れている』といったレポートを作成して共有システムにアップしておきます。それを見た栗山巧選手から『実際にバッターボックスに立ったときに具体的に相手投手のイメージができた』と言ってもらえたこともあります」と説明する。

多様な専門家の知見をデータという共通言語で組織横断的につなぐ「データ戦略室」

こうした土台づくりが功を奏し、ライオンズのデータ活用の輪は着実に広がっていった。2020年には弾道測定分析機器「ラプソード」、2024年には動作解析システム「ホークアイ」を導入している。

だが、市川氏から見て、こうした状況はあくまで通過点でしかなかった。選手個人がデータを使うだけでは限界があり、データ活用をチームの当たり前にするには、組織的な取り組みが不可欠となる。現場の声に寄り添い、課題を探る。そこにデータという客観的な指標を用意し、議論のベースを提供する。今季から本格始動した「データ戦略室」の役割は、まさにそこにある。

2名のデータ分析の専門家を迎え立ち上がったデータ戦略室は、球団内に散在するデータを一元管理し、現場に落とし込むことを目指している。

現在、球団内には、スコアラー、バイオメカニクス、アナリスト、データサイエンティストなど、データを扱うさまざまな専門家たちが在籍している。ここに、選手やコーチ、トレーナー、栄養士なども加えた多様な専門家の知見を「データ」という共通言語で組織横断的につなぎ、チームを強くするためにフラットに意見が言い合える土壌をつくっていく。これこそが、データ戦略室のビジョンである。こうした世界観のことを、市川氏は「データを介して会話が生まれる状態」と表現した。

「ミーティングでも、練習でも、データを見ながら建設的な議論を交わすことを意識しています。『主観ではこうだけど、データではこうなっている』と客観的な目線も入れることで、それぞれが何をやるべきかが明確になっていく。そうした会話が当たり前になるような世界をつくっていきたいですね。データは判断材料の1つに過ぎず、それをどう料理するかは人間の仕事です。大事なのは、そこから生まれるコミュニケーションです。専門性の異なるスタッフがデータを起点に知恵を出し合い、選手や組織が抱える課題の解決策を探っていく文化を定着させることがデータ戦略室の目標です」(市川氏)

マーケターの経験から得た「主観と客観的データを合わせて判断していく」という信念

トラックマンの導入から8年。市川氏の挑戦は、ようやく形になりはじめている。データを介して建設的な議論を交わす。そんな理想的な姿が、少しずつ実現しつつある。

「データ活用に向けた活動を本格化させた頃に比べれば、隔世の感があります。タブレットを見ながらコーチと選手が議論している姿もよく見られるようになってきました」(市川氏)

  • 市川氏が進めてきたデータ活用への取り組みは、徐々にチームに浸透している

ただ、市川氏が描く理想像に向けた道のりは、まだまだ途中だという。

データをもとに打順を決める。他球団の選手の潜在能力を見抜いてトレードを仕掛ける。選手のコンディションを分析できるダッシュボードを作成して、怪我の予防につなげる——やりたいこと、やるべきことはたくさんある。もちろん、すぐに結果が出ないこともあるが、試合の成果やチーム強化につながるまでは、焦らず継続あるのみ。「データ戦略室のビジョンの実現に向けては、何よりも成功体験を積み上げることが大切」と市川氏は意気込む。

ただし、同氏が気をつけているのは、データだけで物事を決めないということ。実際、データ戦略室には「意思決定をする役割はない」という。これは、自身のマーケターとしての経験から生まれた信念だ。

「データを見るだけで、お客さまと会話をしない。そうしたマーケティングのやり方には昔から疑問を感じていました。お客さまの動きを自分の目でチェックして、主観と客観的データを合わせて判断していくことが大切だと思います。データはあくまでコミュニケーションツールです。データのみからでは、正しい判断をしたり、何か物事を語ったりすることは難しいと考えています」(市川氏)

市川氏は、元大阪ガスのデータサイエンティスト・河本薫氏の著書『最強のデータ分析組織』(2017年:日経BP社発行)のなかの「データ分析者には、見つける力、解く力、そして使わせる力が重要」という言葉を取りあげたうえで、「データ戦略室は、そうした力を発揮するための仕組みや環境づくりを地道に進めていくための組織」と強調する。

データは、ライオンズにとって“勝利の方程式”ではない。あくまで、方程式を紡ぐ"共通言語"だ。その言葉を使いこなせる組織になれば、おのずと勝利の法則は見えてくるだろう。「いつか、関係者が当たり前のようにデータを使いこなすチームになる」(市川氏)——。西武ライオンズのデータ活用の取り組みは、まだ緒に就いたばかり。これからが、本当の勝負だ。