九州大学(九大)は5月9日、マウスを用いた動物実験で、「神経新生」による海馬神経回路のリモデリングが、トラウマ記憶の忘却を促し、PTSDに類似した症状を減弱させることを明らかにしたと発表した。
同成果は、九大大学院 薬学研究院の藤川理沙子助教らの国際共同研究チームによるもの。詳細は、英科学誌「Nature」系の分子精神医学を扱う学術誌「Molecular Psychiatry」に掲載された。
PTSDは、生死に関わるトラウマとなるような経験を忘れられず、自分の意志とは無関係に思い出して恐怖を感じてしまう疾患。その結果、安全な場所にいても被害が続いているように感じ、不安や緊張状態が続いてしまう。既存の治療法で効果の得られない患者も存在するため、新たな治療法の確立が望まれており、研究チームは今回、記憶において重要な働きをする脳部位である海馬の神経新生に着目することにしたという。
神経新生とは、ヒトを含むほ乳類の海馬内の「歯状回」において、大人になった後も日々新たな神経細胞が産出される現象のことをいう。研究チームの先行研究によれば、学習後に神経新生を増加させると、海馬依存記憶の忘却が促されることがわかっていた。しかし、トラウマ記憶を含むPTSD症状への影響は不明だったことから、今回の研究ではPTSDモデルマウスを用いた実験を行うことにしたとする。
マウスでPTSDをモデル化するため、「二重トラウマPTSDパラダイム」が用いられた。トラウマ記憶の負荷と記憶確認実験は、白箱と黒箱が連結した仕組みを使用。マウスに黒箱でショックを与えると、その記憶があるうちは黒箱を回避して侵入しなくなる。それを利用し、マウスを白箱に入れてから黒箱に侵入するまでの時間を用いて記憶の評価が行われた。
そして、成体マウスに二度の強いショックを異なる状況下で与えると、恐怖記憶消去の障害・不安の増大・「汎化」(トラウマ経験とは異なる状況、または類似の状況においても、トラウマに関連する恐怖反応が生じること)など、PTSD患者で観察される症状に似た一連の行動が出現することが確認された。
次に、海馬の神経新生を増加させることが報告されている「自発運動」を促すため、マウスのホームケージにランニングホイールが設置された。ショックが与えられた後、4週間の自発運動によりトラウマ記憶が減弱し、PTSD様症状も減弱することがわかったという。しかし、自発運動には神経新生増加以外の生理的な作用もある。そこで、PTSD様症状の減弱が神経新生による効果なのかどうかを調べるため、遺伝学的手法を用いて新生神経だけへのアプローチが行われた。
1つ目の方法では、光によって活性化されるタンパク質分子を特定の細胞に発現させ、光によって細胞活動を操作する「光遺伝学」的手法が用いられた。今回、神経前駆細胞(ネスチン陽性細胞)に特異的に光活性化タンパク質を発現させ、歯状回への光刺激が加えられた。これにより、神経前駆細胞とそこから分化した新生神経の活動を活性化させることができるという。2つ目の方法では、薬剤依存的に遺伝子操作が可能な手法が用いられた。神経の突起伸長を抑制するタンパク質「セマフォリン5A」が、神経前駆細胞に特異的に欠損させられた。
両方法により、神経の数は変わらないまま、新生神経の突起が伸長することが判明。ショックが与えられた後の遺伝学的操作により、トラウマ記憶とPTSD様症状が減弱したという。神経新生の回路への組み込みが促進され、海馬神経回路のリモデリングが生じた結果と考えられるとした。
次に、記憶が関わる他疾患でも神経新生の操作が有効かどうかを調べることにしたとする。薬物依存症は、薬物を摂取した場所状況の記憶から薬物報酬記憶が思い出されて再摂取につながるとされる。マウス実験では、壁や床が異なる2つの部屋を用意し、片方の部屋で生理食塩水を、もう一方で乱用薬物(コカイン)が与えられた。その後、両方の部屋にアクセスできるようにすると、マウスは薬物を与えられた部屋に長く滞在するようになる。この実験方法を用いて、薬物の条件付け後に自発運動や遺伝学的手法を用いて神経新生を操作すると、薬物を与えられた部屋を好む嗜好性が減弱したという。神経新生の操作が、トラウマ記憶だけでなく、薬物摂取の場所状況記憶の忘却にも応用できることが示されたとした。
新生神経は、数週間かけて海馬の神経回路に組み込まれる。このリモデリングにより、既存の記憶が上書きされてアクセスしにくくなる可能性が考えられるという。今回の研究成果から、海馬の成体神経新生がPTSDや薬物依存など記憶の関わる精神疾患の治療ターゲットとなることが示された。神経新生を増加させることのできる運動や薬剤を、PTSDや薬物依存症の治療に応用できる可能性があるとしている。