京都大学(京大)は5月2日、さまざまな「量子多体系」(量子力学の性質に従う多数の粒子が相互作用しあう系)のダイナミクスによって、量子情報がどのように符号化されるのかを詳細に解析し、「量子カオス」が引き起こす「量子誤り訂正」の性質を明らかにしたと発表した。

同成果は、京大 基礎物理学研究所の中田芳史特定准教授、同・大学 理学研究科の手塚真樹助教らの研究チームによるもの。詳細は、米国物理学会が刊行する機関学術誌「Physical Review Research」に掲載された。

  • 量子多体系におけるHP実験の概念図

    量子多体系におけるHP実験の概念図。多くの粒子から構成される量子多体系の一部部分系に量子情報を書き込み、十分長い時間発展後に、他の部分系からその量子情報の復元を試みるというものだ。単純な系ではうまく復元できないが、複雑な系であれば高精度で復元可能だという(出所:京大プレスリリースPDF)

近年、量子多体系の非平衡ダイナミクスと量子誤り訂正の関連が注目されており、特に、複雑な量子多体系のダイナミクスが系の情報をうまく符号化している可能性が理論的に指摘されている。

その可能性を具体的に議論したのが、「Hayden-Preskillの思考実験」(以下、「HP実験」と省略)。まず、量子多体系のごく一部の部分系に何らかの情報を書き込む状況を考える。その情報は、一定時間後にはどのような情報を書き込んだのかは、部分系だけからでは判別できない状況になると予想される。ところが、量子多体系のダイナミクスが十分複雑で既知の場合には、その予想に反して、一定時間後には任意の小さな部分系から、初めに書き込んだ情報をほぼ100%の精度で復元できるようになるという。

HP実験の鍵となるのは、ダイナミクスが「十分に複雑」であることだが、同実験では、量子多体系のダイナミクスが劇的に理想化されているため、実際の物理との関連が不明だったとする。そのため、同実験の提唱以来、何らかの意味で複雑な量子多体ダイナミクスは「スクランブリング」と総称され、多面的な研究が進められている。量子カオスやブラックホールとの関連など、それが引き起こす情報と物理の共創現象が注目されている。

しかし、その発展の中でスクランブリングという言葉は異なる意味で用いられてしまっており、HP実験とその種々の定量化、量子カオスなどの関係については、混迷の様相を呈していたという。そこで研究チームは今回、操作論的な観点からスクランブリングを理解するため、さまざまな量子カオス多体系においてHP実験を数値的にシミュレートすることにしたとする。

今回の研究では、HP実験の考え方に基づき、初期に一部の部分系に書き込まれた量子情報を、長時間の後に任意の小さな部分系からほぼ100%の精度で復元できる場合に、その系のダイナミクスがスクランブリングと定義された。それに基づいて、量子カオス模型の「斜め磁場中の一次元イジング模型」と「ランダム磁場中のハイゼンベルグ模型」、またブラックホールのホログラフィ双対模型の「Sachdev-Ye-Kitaev(SYK)模型」などでのHP実験が検証され、その種々の定量化との違いや、量子カオスのダイナミクスとの関係、さらには、それに関連した新たな量子系のクロスオーバーの探索が行われた。

その結果、HP実験を実現するダイナミクスという意味でのスクランブリングと量子カオスとは別の概念であり、「量子カオスのダイナミクスはスクランブリング」という通説が一般には正しくないこと、しかし「スクランブリングの性質を持つ量子カオスも存在すること」が解明された。また、SYK簡略化模型は量子計算機での実装が比較的容易なため、今回の結果は、「量子カオスかつスクランブリング」の量子多体系を実験的に実現する1つの可能性を提示するものだという。

さらに、「SYK4+2模型」においてHP実験が考察され、これまで予想されていた量子クロスオーバーの存在を、情報の復元精度によってうまく特徴づけられることが示されたとする。この結果は、量子情報的な考え方に基づいて、その量子クロスオーバーを直感的にうまく理解できることが示唆されており、量子多体系の情報的な性質の変化によって顕在化する量子多体現象が存在することを意味しているとした。

今回の研究成果は、スクランブリングの物理をさらに発展させるものとする。特に、HP実験が量子誤り訂正と関連することから、今回の成果は複雑な量子多体系におけるダイナミクスと量子誤り訂正の関係を解明する第一歩になっているとした。

またHP実験は、ブラックホールを量子多体系でエミュレートしてホログラフィ双対の理解を深めるためにも重要だが、どのような物理系を用いればそれが達成できるのかできないのかが示されたという点でも、将来の実験研究への波及効果が見込まれるとする。

今後の予定としては、スクランブリングと量子誤り訂正の関係をより正確に理解するため、各種模型のダイナミクスによって実現する量子誤り訂正の性能評価を行っていくとした。このことにより、スクランブリングの物理を超えて、それを活用した量子情報処理への応用につながることが期待されるとしている。