約60,000,000,000,000。

読者諸君はこれが何の数字かご存知だろうか。

この数字は私達を構成する細胞の数である。

約60兆。決してフォーブス誌に載っている世界長者番付トップの総資産額ではない。ちなみに2022年4月5日に発表された情報によると、世界長者番付トップはイーロン・マスク氏で約26兆9400億円だそうだ。筆者の頭から湯気が出てきた。

さて、脱線した蒸気機関車をレールに戻さねば。

つまり私達は、人の形をした細胞集合体であり、全体の約2%、約1.2兆個の細胞が1日で入れ替わっているとされている。そして、この入れ替わりは細胞分裂によって行われる。細胞分裂は多数のタンパク質によって異常が起きないように管理されており、さらに2万種以上ものタンパク質が体内で作られ細胞内で働いているのだ。

いうなれば私達も細胞という名の従業員を、60兆も抱える誇り高き大経営者なのである。そんな毎日1.2兆もの細胞が退社し、次の日には1.2兆もの新卒が入社してくる“株式会社ワタシ”の管理となると、その仕事量と責任は計り知れない。

そこで今回は、そんな多忙を極めるタンパク質に焦点を当てた研究について紹介しようと思う。

北海道大学大学院理学研究院、石川県立大学、基礎生物学研究所、九州大学、理化学研究所、宮城大学らの研究グループは、コケ植物を用いて細胞分裂に重要なタンパク質の新たな機能の発見に成功したという。

詳細は「Science Advances」誌にオンライン掲載されている。

私達の体は細胞分裂を正しく繰り返して出来上がっているが、時折、分裂時にミスが生まれ、異常な細胞を生み出すことがある。この異常な細胞が、がん細胞となり増殖を繰り返すことで死に至るのだ。

この正しい細胞分裂が行われるために重要なタンパク質、PSTAIRE型サイクリン依存性キナーゼ※1(動物ではCDK1、植物ではCDKA)は、体内に2万種以上もあるタンパク質の中でも特に重要なものだ。

一般的にタンパク質の働きを調べるためには、そのタンパク質が存在しない状態で、異常をきたしている部分を調べる方法が有効だ。しかし、PSTAIRE型CDKは無くなると細胞が正しく分裂できなくなり、その生物が死んでしまうため、これまで詳しい実験は行われていなかった。

今回の論文を発表した研究グループは、コケ植物を用いて、CDKAタンパク質をコードするCDKA遺伝子を取り除き、CDKAを持たないコケ植物の作成に成功したのだ。そしてこの植物は、光を受けた際、異常な反応を示したことから、その詳細を観察した。

  • コケ植物を用いることで、CDKAタンパク質が細胞骨格を調節しながら細胞分裂と光応答の両方を制御していることが明らかになった

    コケ植物を用いることで、CDKAタンパク質が細胞骨格を調節しながら細胞分裂と光応答の両方を制御していることが明らかになった(出典:北海道大学)

  • 正常な植物(WT)とCDKAが無い植物(cdka-dko)の比較。(A)コケ植物の原糸体<sup>※2</sup>の様子。(B)コケ植物の茎葉体*3の様子。(C)光屈性応答が両者で異なる。(D)葉緑体が時間経過と共に光の照射部位に集まる葉緑体光定位運動が見られなくなる。青色の枠の部分に光が当たっている

    正常な植物(WT)とCDKAが無い植物(cdka-dko)の比較。(A)コケ植物の原糸体※2の様子。(B)コケ植物の茎葉体*3の様子。(C)光屈性応答が両者で異なる。(D)葉緑体が時間経過と共に光の照射部位に集まる葉緑体光定位運動が見られなくなる。青色の枠の部分に光が当たっている(出典:北海道大学)

上図のAおよびBからわかるように、CDKAを持たないコケ植物は、CDKAを持つ普通のコケ植物と比べて成長や形に異常は見られない。しかし、コケ植物がストレスを感じるような光を当てると変化が見られたのだ。

普通のコケは、強すぎる光や弱すぎる光を当てた場合、光が来る方向から逃げる、あるいは向かうように成長する(光屈性)。一方、CDKAを持たない植物は、光の強弱に関係なく常に光の来る方に成長した。

また植物が緑色に見える葉緑体は、光合成に大切な細胞小器官で、効率よく光合成を行うために頻繁に細胞内を移動する(葉緑体の光定位運動)。すなわち、光が弱い時には葉緑体が光が当たりやすい位置に移動し、反対に光が強いときにはダメージを少なくするために光が当たりにくい位置に移動する。

しかし、CDKAを持たない植物では、この葉緑体の移動が起こらなかった。このことから、CDKAは葉緑体の制御に関わり、光合成の効率化に影響していることが判明した。

さらに、モデル植物として代表的なアブラナ科のシロイヌナズナでも同様の実験を行い、コケ植物のCDKAと同じ働きをしていることが明らかとなった。

これらの結果から、細胞分裂に重要であることでよく知られていたCDKAは細胞分裂以外に、光合成に大切な光屈性や葉緑体の光定位運動という光の情報を伝達する部分でも極めて重要な役割をもつことが実証されたのである。

研究チームは、動物のCDK1と植物のCDKAは,両者でアミノ酸配列がよく似ておりそれぞれの働きもよく似ていることから、動物においてもCDK1が細胞骨格を制御し、細胞分裂以外の細胞内のさまざまな応答に重要な機能を持っている可能性が高いとしており、今後ヒトの研究においてもCDK1の新たな機能の発見や、CDK1が関わる病気の新たな治療法への可能性につながると期待されるとした。

文中注釈

※1:サイクリン依存性キナーゼ(cyclin-dependent kinase、略称はCDK)は細胞周期を調節する働きが初めて発見されたリン酸化酵素グループの総称。
※2:コケ植物の胞子が発芽してできる糸状の組織

※3:コケ植物の原糸体が成長して作られる茎と葉のある組織