慶應義塾大学(慶大)、高知工科大学(KUT)、生理学研究所(生理研)の3者は9月16日、適切な行動に不確かさがある状況で行動を切り替えるとき、ヒトの脳では前頭前野と後頭側頭皮質が機能を補完することを発見したと発表した。

同成果は、慶大理工学部 生命情報学科の津村夏帆 大学院生(研究当時)、同・小杉啓太 大学院生(研究当時)、同・地村弘二 准教授は、KUTの中原潔 教授、同・竹田真己 特任教授、生理研の近添淳一 准教授らの共同研究チームによるもの。詳細は、海馬を含む大脳皮質の発達や進化、組織化、可塑性および機能に関する論文を扱う学術誌「Cerebral Cortex」に掲載された。

行動の切り替えは、変化する環境に柔軟に適応するためのヒトの認知機能として考えられており、中でも「課題切り替え」は、行動の柔軟性を科学的に調べるための枠組みの1つとして知られ、その際には左大脳半球の前頭前野が重要であることが知られている。

これまでの課題切り替えの研究では、行動する状況が明確に知覚されることが前提になっていたが、実際の日常生活においては、重要な情報が常に適切に知覚できるとは限らないことが多く、そうした知覚される情報の曖昧さを操作し、判別がどのように変化するかを調べる「知覚的意思決定」の研究では、視覚情報の様式(例えば顔や場所)に依存して、後頭側頭皮質の分散した領域が知覚的意思決定に重要であることが知られているという。

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    (A)脳の左半球の模式図。行動の切り替えには、左大脳半球の前頭前野が重要とされる。情報が曖昧な場合は、視覚情報の様式(たとえば、顔や場所)に依存して、後頭側頭皮質の分散した領域が知覚的意思決定に重要であることが知られている。(B)課題切り替えのルールである「課題セット」の構造図。階層構造を持つ。今回は上側のキューが着目された。(C)今回の実験で用いられた、動きの曖昧さを操作する視覚刺激。複数の小さい点は上下またはランダムに動く。画面の中心には、顔と場所の写真が重ね合わされた画像が提示された (出所:共同プレスリリースPDF)

2021年1月に研究チームは、「知覚的な不確かさがある状況で、課題切り替えは脳でどのように起こるのか」という問いについて、階層的な構造を持つ課題のルール「課題セット」に基づいて課題が遂行され、階層の下段で、判断する次元を定めるターゲットの不確かさの操作が行う場合、前頭前野が補完的に情報を伝達することで達成されるという結果を報告していた。

それに対して今回の研究は、階層構造の上段にあり、どのような課題をするのかを定める手がかり(キュー)に着目。キューの判別についての指定を行った後、「キューに不確かさがあるとき、脳で切り替えはどのように導かれるのか」という問いを立てて行われたという。

具体的には、小さな点がランダムに動くという動きの曖昧さを操作する視覚刺激により、知覚される不確かさを操作した後、画面の中心に、顔と場所の写真が重ね合わされた画像を提示するという実験を実施。点全体の動きの方向がキューとなり、判別すべきターゲットが指定される仕組みで、例えば、指示される点が上方向の場合は顔、下方向の場合は場所がターゲットとなるほか、顔の判別では、性別(男・女)、場所の判別では屋内外(屋内・屋外)を答えることが要求されるといったものであったという。

判別の基準が「顔」から「場所」、または「場所」から「顔」に変わるときは「切り替え」と呼ばれ、これらの課題を切り替えたときの脳の活動の測定をfMRIを用いて実施。その結果、切り替えが起こると、左の前頭前野の活動が大きくなることが確認されたとするほか、キューの不確かさが強くなると、前頭前野の活動はさらに大きくなることも確認されたという。また、この時、後頭側頭皮質にある、顔と場所の知覚に関わる領域は、キューの不確かさが大きいときに、前頭前野から「トップダウン信号」を受ける一方、不確かさが小さいときには後頭側頭皮質から前頭前野へ「ボトムアップ信号」が伝達されていることも確認されたとする。

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    (D・左)キューの不確かさが大きいときの脳内の信号の流れ。後頭側頭皮質にある顔と場所の知覚に関わる領域は、前頭前野からのトップダウン信号を受け取る。(D・右)キューが不確かでないとき(不確かさが小さいとき)は、後頭側頭皮質にある顔と場所の知覚に関わる領域から前頭前野へのボトムアップ信号が送られる。(D・下)後頭側頭領域の知覚に関連する情報量は、課題を切り替えるときに大きくなり、キューの不確かさが増えると減ることが確認された。(E)畳み込みニューラルネットワークモデルを用いた、脳に含まれる情報をマップする技術の模式図 (出所:共同プレスリリースPDF)

また今回の研究では、畳み込みニューラルネットワークモデルを用いて、脳に含まれる情報をマップする技術を開発して解析を行ったところ、後頭側頭領域の知覚に関連する情報量は、課題を切り替えるときに大きくなり、キューの不確かさが増えると減ることも判明したとする。

これらの結果について研究チームでは、行動の柔軟性が、目的を達成するために必要な情報を環境から抽出する知覚的意思決定に依存していることを示すものであるとするほか、行動の柔軟性に関連している左前頭前野と、キューとターゲットの知覚に関わる後頭側頭皮質が相互に補完的な役割を果たすことによって、不確かな状況での切り替えが起こっていることを示唆しているとしている。

今回の研究と2021年1月に発表された研究は、いずれも行動の柔軟性に焦点が当てられたものだが、ヒトには多様で精緻な認知の制御機構が備わっていることから、研究チームでは今後、認知の制御と知覚的意思決定が協調する洗練された機能には、どのような情報処理の様式があるのか調べたいとしているほか、今回の研究で開発された深層学習による脳機能マッピングの手法を用いて、脳機能研究における新しい解析の枠組みを確立したいともしている。