実際には沈着冷静だったレオーノフ氏

こうした伝説のうち、宇宙服が膨張したことや、それにより船内に戻る際に支障が生じたこと、当初予定していた活動時間をオーバーしてしまったことなどは事実である。

しかし、膨張した宇宙服から酸素を抜いたことについて、地上からの指示だったとする文献があるが、実際にはレオーノフ氏の独断であった。これについてレオーノフ氏は、前述の著書のなかで「最初は管制室に報告しようと思った。しかし、断念した。地上に緊張感を与えたくなかったからだ。それに、いずれにしても状況をコントロールできるのは私しかいなかった」としている。

さらに、近年明らかになったボスホート2ミッションの報告書では、このことはとっさに思いついた一か八かの賭けというわけではなく、レオーノフ氏があらかじめ、宇宙船の中に戻れなくなった場合を想定し、宇宙服内の気圧を下げることを選択肢として考えていたことが記されている。

そして、「エアロックに足からではなく、頭から突っ込んだ」という部分については、レオーノフ氏の記憶違いであることがわかった。

前述した報告書では、「私は右手にカメラを持ちつつ、両手でエアロックの縁をつかんで、両足を同時にエアロック内に押し込んだ。そして、体を左手で押さえながら、右手でカメラを中に入れた」と記されており、頭から入ったとは一言も触れられていないばかりか、足から入ったと記されている。

また、同じく最近公開された当時の記録映像でも、明らかに足から入っている様子が映っている。

ボスホート2ミッションの記録映像

【動画】ボスホート2ミッションの記録映像。レオーノフ氏が"足から"エアロックに入る様子は、1:00:30あたりから確認できる (C) RKK Energiya

なぜ、レオーノフ氏はこのような記憶違いをしたのだろうか? 明確な答えを出すことは難しいが、手がかりはエアロックに入ったあとの行動にある。

報告書によると、レオーノフ氏は足からエアロックに入ったものの、その後手にしていたカメラをボスホート内に押し込むため、いったんエアロック内で反転し、頭からボスホートに入ったという。そしてその後、エアロック内でふたたび反転し、今度は足からボスホートに入って、座席についたとされる。

つまり、これまで語られてきたような、エアロック内で命からがらの状態で反転したことはないものの、落ち着いた状態で反転を、それも2回もしたことはあったようで、これが「エアロックに頭から入って反転した」という記憶違いの原因となった可能性が高い。また、エアロックに足から入ったことを示す決定的な証拠といえる報告書や映像は、最近まで公開されなかったため、レオーノフ氏も再確認する機会がなく、同時に第三者による検証も難しかったことも影響していると考えられる。

  • アレクセイ・レオーノフ

    ボスホート2とエアロックの構造図。左にある球体が宇宙船のカプセル本体で、右に飛び出した筒状の部分が膨張式のエアロック。その中に描かれているのがレオーノフ氏 (C) Roskosmos

さらに、「数リットルの汗が流れた」とか「体重が6kgも減少した」といった、巷であふれている伝説を裏付ける証拠はない。報告書では、レオーノフ氏が「船外活動が終わったあとは疲れていた」とはされているが、それは「無重量状態をシミュレートした、飛行機でのパラボリック飛行における訓練と比較して」とされ、すなわち疲れ切ってはいなかったことが示唆されている。

また、太陽光に関しても「サンバイザー越しに太陽を見ると熱かった」という程度しか書かれていない。

ソ連・ロシアの宇宙開発に詳しいAnatoly Zak氏も「そのような劇的な出来事について、それを裏付けるような入手可能な文書や映像はありません」と語る。

ただ、これまで信じられていた話のいくつかが間違いだったにせよ、危険と隣り合わせの状態で、前人未到の船外活動に挑んだレオーノフ氏の勇気と偉業の輝きが失われることはない。

むしろ、あらゆる事態を想定しておき、そして実際に困難が起きたとき、冷静に対処したことが判明したことで、その輝きはさらに増したとさえいえよう。

  • アレクセイ・レオーノフ

    史上初の船外活動を行うレオーノフ氏 (C) Roskosmos

その後のレオーノフ氏

レオーノフ氏が約12分間にわたる船外活動を終えたのち、ボスホート2は地球への帰還を開始した。

しかし、宇宙船にトラブルが発生し、帰還も計画どおりとはいかなかった。レオーノフ氏とベリャーエフ氏はなんとか乗り越え、地球へ帰還するも、回収エリアを越えてウラル山脈の山中に着陸。2人は回収チームがやってくるまで、森の中で一晩、狼に怯えながら過ごす羽目となった。

その後レオーノフ氏は、新世代の宇宙船「ソユーズ」に搭乗するための訓練を開始。当時計画されていた有人月飛行への準備も進めていたものの、このころには米国が宇宙開発において、質的にも量的もソ連を追い越しつつあった。そしてアポロ計画の成功により、ソ連の有人月飛行計画は中止となり、レオーノフ氏が月へ飛び立つことはなかった。

ソ連はその後、宇宙ステーションの構築に力を入れるようになり、1971年にはレオーノフ氏を船長とした「ソユーズ11」が、宇宙ステーション「サリュート1」へ向かうことになっていた。しかし、打ち上げ前の医学検査で、同僚クルーのうちの1人が結核に感染していることが発見され、バックアップ・クルーに交代。このソユーズ11は無事に打ち上げられたものの、地上へ帰還する際に空気漏れ事故が発生し、交代したクルー3人が全員死亡するという悲劇に見舞われた。レオーノフ氏はこのようなトラブルが起きる可能性を予見していたとされ、「自分が乗っていればこんなことにはならなかったのに」と自責の念に駆られたという。

レオーノフ氏はそれを乗り越え、続いてソユーズと米国のアポロを軌道上でドッキングさせる「アポロ・ソユーズ・テスト計画」に参加。1975年には「ソユーズ19」に搭乗し、米国の「アポロ」とのドッキングに成功し、軌道上で米国の宇宙飛行士との交流を果たした。

こうしたミッションの合間にも、彼はいくつもの絵を描き残しており、芸術家としての情熱が失われることはなかった。

その後、レオーノフ氏は宇宙飛行士のリーダーを務め、1982年に辞任。そしてモスクワにあるガガーリン宇宙飛行士訓練センターの副センター長に就任し、新しい世代の宇宙飛行士の育成にあたった。1991年には宇宙開発の分野から引退し、ロシア最大の民間銀行であるアルファ銀行の副頭取などを務めた。

近年も講演や自伝の出版などの活動を精力的に続けていたが、2019年10月11日、85歳で亡くなった。

彼の名は、月の裏側にあるクレーターや、メインベルトにある小惑星「5154レオーノフ」、そしてアーサー・C・クラークのSF小説『2010年宇宙の旅』に登場する木星探査船などの名前として残り、人類の宇宙への挑戦を見守り続けている。

  • アレクセイ・レオーノフ

    米ソ初の共同ミッションとして行われた、アポロ・ソユーズ・テスト計画での一枚。下がレオーノフ氏、上が米国の宇宙飛行士ディーク・スレイトン(ドナルド・スレイトン)氏 (C) NASA

参考文献

https://www.roscosmos.ru/28187/
Voskhod-2 achieves the world's first spacewalk
Leonov performs world's first spacewalk
ESA - Alexei Leonov: The artistic spaceman
・David Scott and Alexei Leonov, Two Sides of the Moon: Our Story of the Cold War Space Race, New York: St. Martin's Press, 2004, pp.