人類が初めてその身ひとつで宇宙の大海原に飛び込んだのは、いまから55年前の1965年3月18日のことだった。この日、ソビエト連邦のアレクセイ・アルヒポヴィチ・レオーノフ宇宙飛行士は、「ボスホート2」宇宙船から宇宙へ飛び出し、人類初の船外活動(宇宙遊泳)に成功した。
このとき、彼の身にいくつもの困難が降りかかり、命からがら、危機一髪の出来事であったと長らく語られてきた。しかし、近年公開された資料からは、それらがやや誇張されたものであることがわかってきた。
アレクセイ・レオーノフ
レオーノフ氏は1934年5月30日、ソ連のシベリアにあるバイカル湖近くの小さな街リストヴァンカで生まれた。子どものころから手先が器用で、スペアパーツを組み合わせて一台の立派な自転車を造り上げたこともあったという。また、芸術の才能もあり、第二次世界大戦中は兵士や戦場のスケッチに没頭した。
戦後、一家はカリーニングラードに移住。1953年に義務教育を修了すると、リガ(現ラトビア)芸術アカデミーに入学した。しかし、金銭面から通学を断念し、2年後にウクライナにある空軍学校に入学。ソ連が世界初の人工衛星「スプートニク」を打ち上げた1957年に卒業し、ソ連空軍のパラシュート教官の資格を取得した。また、フェンシングやバレーボールなど、さまざまなスポーツにも勤しみ、そして芸術への情熱も捨てることなく、空き時間を利用して勉強を続けたという。
ちょうどそのころ、ソ連では有人宇宙飛行計画が進んでおり、その宇宙船に乗る宇宙飛行士を育てるため、全国各地の有能なパイロットが選考にかけられた。そのなかで、運動神経がよく、パラシュート教官の資格をもち、飛行機のパイロットとしても優秀だったレオーノフ氏は、すぐに当局の目に留まった。
そして1960年、レオーノフ氏はユーリィ・ガガーリン氏らと共に、初の宇宙飛行士訓練生20人の一人に選ばれた。彼らは厳しい訓練を重ね、1961年4月12日にガガーリン氏が「ボストーク」で人類初の有人宇宙飛行に出発。地球を約1周し、140分間にわたる伝説を創り上げた。一方レオーノフ氏は「ボストーク5」のバックアップを務めたが、ボストーク計画が6号機までで終わったこともあり、結局ボストークに乗って飛行することはなかった。
そのころ米国も、ソ連に対抗して宇宙開発に力を入れ始めていた。初の衛星の打ち上げ、そして初の有人飛行でもソ連が先んじたものの、1961年5月にはマーキュリー「フリーダム7」で米国初の有人飛行に成功。1962年2月には軌道周回飛行にも成功し、徐々にソ連を追い上げてきた。
これを受けてソ連は、最大3人が乗れる宇宙船「ボスホート」を開発。とはいえ、まったくの新規開発というわけではなく、ボストークを改造して、半ば無理やり複数人が乗れるようにした宇宙船だった。1964年10月、ウラジーミル・コマロフ氏、コンスタンチン・フェオクチストフ氏、ボリス・エゴロフ氏の3人が搭乗したボスホートの1号機が打ち上げられ、ミッションは成功。複数人を宇宙へ送ったという点で、また米国に先んじた。
続いてソ連は、さらに米国を突き放すべく、次のミッションでは宇宙飛行士が宇宙船の外に出る船外活動、いわゆる宇宙遊泳を行うことになった。これは、宇宙服をはじめとする技術的な優位性を示すとともに、ソ連国民の勇敢さをも示し、さらに将来的には別の宇宙船に乗り移るような、複雑なミッションへの応用も視野に入れたものだった。
そして、この前人未到のミッションに抜擢されたのが、レオーノフ氏だった。
1965年3月18日、船長のパーヴェル・ベリャーエフ氏とともに、レオーノフ氏はパイロットとして「ボスホート2」に搭乗。宇宙へと打ち上げられた。ボスホート2には、宇宙船の外に出るための膨張式のエアロックが装備されていた。そして軌道を2周したところで、レオーノフ氏はこのエアロックの中に入り、特製の宇宙服と命綱を頼りに、船外へと飛び出した。
レオーノフ氏の宇宙遊泳にまつわる伝説
この世界初の船外活動は、いくつもの想定外の事態や困難に見舞われ、命を失うかもしれなかったとされている。
レオーノフ氏は、米国の宇宙飛行士デイヴィッド・スコット氏との共著「Two Sides of the Moon(邦題「アポロとソユーズ-米ソ宇宙飛行士が明かした開発レースの真実」)」の中で、当時の出来事について次のように振り返っている。
船外活動を終え、宇宙船に戻ろうとしたとき、私は自分の宇宙服が気圧のせいで膨張していることに気付いた。足からブーツが外れ、指も手袋から外れてしまい、体の自由がきかず、エアロックに足から入るのは不可能だった。しかし、宇宙にいられる時間は限られていた。どうにかして早く中に戻らなければならない。そこで私は、足からではなく、頭からエアロックに入ることに決めた。
また、膨張した宇宙服がエアロックの直径よりも大きくなってしまったため、宇宙服を満たしていた酸素を放出し、しぼませる必要もあった。酸素不足になる危険があることはわかっていたが、選択の余地はなかった。どちらにせよ、宇宙船に戻れなければ私の命はなかった。
やっとの思いでエアロックの中に入り込むことはできたが、さらにもうひとつの困難が襲った。足からエアロックに入っていれば、腕を伸ばしてハッチを閉めることができたが、頭から入ったことで閉められなくなったのである。そのため、狭いエアロックの中で体を反転させなければならなかった。
そしてなんとか身を捩らせて、ハッチを閉じ、同僚のベリャーエフの操作で気圧が安定したことを確認したのち、私は宇宙船に戻ることができた。このとき私は汗だくで、心臓はバクバクしていた」。
(原文より筆者訳)
このエピソードは長らく真実として、とくに命の危険を賭して宇宙服の酸素を抜いたこと、そしてエアロック内でもがきながら反転したことはとりわけ印象的な出来事として語られ続けてきた。さらに、レオーノフ氏が直接言及したことはないにもかかわらず、たとえば「数リットルの汗が流れた」とか、「体重が6kgも減少した」、また長い間宇宙に出ていたことで「太陽光であぶられ全身が熱く燃えるようだった」といった尾ひれがついて紹介されることもあった。
しかし、近年明らかになった当時の資料からは、たしかに困難はあったものの、これまで語られてきたほど危機的な状況ではなかったことがわかってきた。