理化学研究所(理研)と電気通信大学(電通大)は11月28日、将棋の経験がない20人の被験者を対象に、将棋を単純化した「5五将棋」の一定の訓練を4カ月間行い、訓練初期と訓練後の脳の働きを機能的磁気共鳴画像法(fMRI)で測定・比較した結果、訓練を通じて直観的思考能力が上達すると同時にプロ棋士と同じ直観的思考の神経回路が発達することが確認されたことを共同で発表した。
成果は、理研 脳科学総合研究センター 認知機能表現研究チームの田中啓治チームリーダー、同・万小紅 研究員、同・機能的磁気共鳴画像測定支援ユニットの程康 支援ユニットリーダー、電通大大学院 情報理工学研究科の伊藤毅志助教、そして富士通、富士通研究所、日本将棋連盟らを加えた「将棋プロジェクト」(2007年に理研が開始した)の一環だ。研究の詳細な内容は、米科学雑誌「The Journal of Neuroscience」11月28日号に掲載。
勝負の世界には、瞬間的に有利不利を判断して正しく対処できる優れた能力を持つ人がいる。このレベルに達するには、その分野での集中した訓練を長期にわたって行うことが必要であるという。
運動技能の訓練の場合と同じく、訓練の初めには意識的に時間をかけて解決策を考え出す。しかし、経験が蓄積するにつれて思考過程は自動的に、そして素早くなっていく。この無意識的な思考過程は、「直観」と呼ばれている。
この直観的思考は、勝負の世界以外にも熟練した医師の正確な診断や技術者のシステム故障の的確な診断などに重要であることが確認済みだ。熟達者の長年の経験と知識に基づいた直観が、マニュアル化できないような事態の解決法を見つけ出すのだが、本人にも論理立てて説明することが難しく、直観的思考を他者に伝達、または教育することが困難であると考えられている。そのため、直観的思考の仕組み解明が待ち望まれているところだ。
将棋やチェスなどのボードゲームは規則が明確なので、優れた認知技能能力を持つ熟達者の心理学または脳科学的研究に適している。過去に行われたチェスに関する認知心理学の研究の中で、世界トップクラスの競技者と愛好家レベルの技能の最も大きな違いは、短時間に見た盤面における次の一手(最善手)が直観的にわかる能力であることが報告されていた。
2011年に日本将棋連盟らと協力して行った将棋プロジェクトの研究の1つでは、詰め将棋問題を1秒で解く直観課題と、8秒かけて意識的・論理的に解く長考課題におけるプロ棋士の脳活動の比較を実施。
その結果、直観課題と長考課題に共通して大脳皮質のいくつかの部位の活動が活発化する一方で、直観課題の時だけ「大脳基底核」に位置する「尾状核」の活動が活発になることが発見されたのである(画像1)。
画像1は、詰め将棋を解いている時のプロ棋士の脳活動だ。上段は、プロ棋士が詰め将棋問題を1秒で直観的に解いた時(直観的思考課題中)に活動した脳部位。大脳皮質のいくつかの領野に加えて、尾状核(緑丸部分)が活動した。
下段は、プロ棋士が詰め将棋問題を8秒かけて意識的に解いた時(長考課題中)に活動した脳部位。直観的思考の場合と同じ大脳皮質の部位が活動したが、尾状核(赤丸部分)は活動しなかった。
また、プロ棋士における尾状核の活動はアマ棋士よりも強かったため(画像2)、プロ棋士が持つ優れた直観的思考能力の基礎は尾状核を含む神経回路の利用にあると主張した。しかし、この研究では、棋士がプロになる前の脳活動とプロになった後の脳活動を比較していないため、プロ棋士を目指す過程の長期間にわたる訓練によって次の一手を考え出すために尾状核神経回路を使うようになったのか、もともと尾状核神経回路の活動が活発だった人がプロ棋士になれたのかの判断はつかなかったのである。
画像2は、詰め将棋を解いている時のアマチュア棋士の脳活動。上段は、アマチュア高段者が詰め将棋問題を1秒で直観的に解いた時(直観的思考課題中)に活動した脳部位。プロ棋士と同じ大脳皮質の領野が活動したが、尾状核の活動は弱かった。下段は、アマチュア高段者が詰め将棋問題を8秒かけて意識的に解いた時(長考課題中)に活動した脳部位。
そこで今回の研究では、将棋の経験がない素人を対象にして一定期間の訓練を行い、その訓練前後で直観的思考課題に取り組んでいる脳活動を測定、比較することで、訓練と尾状核の活動の関係が調べられたのである。
まず、4カ月間にわたって5五将棋の集中訓練が行われた。ちなみに5五将棋とは本将棋を単純化したもので、本将棋が9×9マスなのに対して5五将棋はその名の通りに5×5マスと盤面が狭く、使うコマの種類も限られている。
1局が終了するまで、本将棋は130手程度かかるのに対し、5五将棋は30~40手程度と3分の1から4分の1ほどだ。本将棋に比べてシンプルであり、なおかつ本将棋と同じく規則がはっきりしているので、今回の訓練対象に適当とされた(画像3)。
画像3は、5五将棋の初期コマ配置。本将棋に対して盤面が狭く、コマ数も限られている。香車と桂馬がなく金と銀はそれぞれ1枚だけで、歩も1枚という構成だ。1局の手数も本将棋の130手程度に対して、5五将棋は30~40手程度と、将棋より単純なゲームである。
今回の実験では、5五将棋はもちろんも本将棋も経験がない男性(20~22歳)被験者20人を対象として、4カ月間にわたってコンピュータプログラムを相手に毎日5五将棋の対局を行わせた。
このプログラムは対局だけでなく、求めに応じて次の一手のヒントも与え、強さも指定することができるようになっている。被験者には概ね50%の率で勝つようにプログラムの強さを指定するように指示。また被験者の動機づけのため、訓練期間の終わりに5五将棋のトーナメント大会を行い、上位半分以上の成績を挙げた人には賞金が用意された。
実際の1日当たりの被験者の訓練時間は平均40分。個人差はあるが、訓練後にはそれぞれに5五将棋が上達しているのが確認された。
そして、訓練初期と訓練後に直観的思考課題時の脳活動の測定を実施。直観的な次の一手を考え出す(直観的思考課題)時の脳活動を調べるために、5五将棋の詰め将棋問題を2秒提示し、次の3秒以内に4個の選択肢から最善手を選ばせるという課題を与え、その間の脳活動が測定されたのである(画像4)。
画像4は、fMRIによる脳活動測定実験に用いた課題。全部で180問の詰め将棋問題と60問のコントロール課題用の盤面が用意され、約11秒ごとに異なる問題が提示された。
直観的思考課題に含まれる次の一手を導き出す以外の過程を差し引きするために(測定中のノイズを極力減らすために)、対戦相手のコマだけで構成される盤面を示し、玉の位置を4個の選択肢から選んで答えるコントロール課題が混ぜられた。その後、詰め将棋問題に関する思考を止めるための妨害課題として、将棋のコマを1個ずつ提示し(1秒に4個)、金が出たらボタンを押させるという流れである。
訓練を始めてから2~3週目に1回目の測定を、訓練期間終了後に2回目の測定を行い、訓練前後が比較された。訓練初期の直観的思考課題における正答率は平均31%だったが、訓練後にはほぼ全員の正答率が上昇し平均40%までに達した。(画像5)。
画像5は、直観的思考課題における被験者ごとの平均正答率の訓練による上昇をまとめたグラフ。白丸が被験者ごとの正答率を表し、訓練初期の正答率と訓練後の正答率が線で結ばれている。チャンスレベルとは、ある事象が偶然生じる確率のこと。この課題では、4択の問題なので、でたらめに選んだとしても25%の確率で正答するというわけだ。
訓練初期の平均正答率(31%)はチャンスレベルに近かったが、訓練後には正答率が平均40%と顕著に上昇した。これは、被験者の直観的思考が訓練により確実に上達したことを示す。
fMRIで観察したところ、訓練初期の直観的思考課題遂行中には前頭前野背外側部を含む大脳皮質のいくつかの領野が活動するのが確認された。これらの大脳皮質の活動の空間分布と強さは訓練後もほとんど変わっていない。
これに対し、訓練初期に見られなかった尾状核の活動が訓練後に現れた(画像6・7)。また、直観的思考課題遂行中の尾状核の神経活動の強さは、訓練による直観的思考課題の正答率の上昇に相関していることが確認されている(画像8)。
画像6。直観的思考課題を行っている時の脳活動図。脳の構造画像(灰色)の上に、訓練前後で共通に活動が高まった領域を黄色と赤色で示したもの。それぞれの領野によって丸(赤、青、緑)で囲って示されている |
画像7。各部位の訓練初期(fMRI1)と訓練後(fMRI2)の脳活動の強さの比較。訓練後には尾状核の活動だけが顕著に上昇している |
今回の研究から、素人であっても毎日一定の訓練を継続的に行えばプロ棋士と同じ直観的思考回路を持つようになることがわかった。この直観的思考回路は大脳皮質ではなく、尾状核という構造に依存していることも確認されたのである。
尾状核は大脳皮質の前頭前野を含むいくつかの脳領野から入力刺激を受け、感覚入力の中継地点となる視床を介して大脳皮質へ出力刺激を送るループ状の回路を持っているので、大脳皮質における情報処理に依存しながらいくつかの可能性から最善手を効率的に選ぶ働きをしていると考えられるという。
ただし、4カ月間で素人がプロ棋士と同じレベルの直観的思考能力を獲得したわけではないことは留意すべき点だ。5五将棋という単純なゲームを使ったために、被験者は直観的思考能力を比較的容易に上達させた可能性があるとする。
また、被験者は答えを選択する反応時間が短いほど平均正答率が高いという特徴を示し、尾状核の活動も強い傾向があった。プロ棋士ではこのような傾向はなく、尾状核は反応時間に関係なく常に活発に活動していることがわかっている。
今回の被験者では、直観的思考回路がよく働く課題とそうでない課題があったことから、さらに訓練を続けることで直観的思考回路がどの課題でも働くようになることを示唆しているという。
さらに、20人の被験者の間で、平均正答率と直観的思考回路の活動の強さには大きなばらつきがあった。このばらつきは訓練の合計時間の多少には関係なかった。被験者の興味や真剣さなどの取り組み方の違いによって、直観的思考回路の発達の程度に違いが生まれた可能性がある。
研究グループは今後、このような訓練方法を工夫することで、直観的思考回路の発達を促す効率的な手法を確立することを目指すという。これが確立できれば、医療やコンピュータエンジニアなどの分野で今まで叶わなかった熟達者の効果的な育成法の提案をできることから、新しい教育法の可能性を広げることが期待されるとしている。