科学技術振興機構(JST)、浜松医科大学、島津製作所の3者は、共同開発した新型の観察装置「質量顕微鏡」を用いて、見過ごされがちだが破裂すると死亡率が8割におよぶ「腹部大動脈瘤」を調べたところ、栄養を届けるための血管が閉塞し、腹部大動脈の血管壁内を流れる血液量が少なくなっていることを発見したと共同で発表した。
成果は、浜松医科大解剖学の瀬藤光利教授、同・外科学の今野弘之教授、同・海野直樹講師らの研究グループによるもの。今回の研究成果はJST 研究成果展開事業 先端計測分析技術・機器開発プログラムの一環として開発された「質量顕微鏡」を使用して得られたもので、詳細な内容は「国際質量分析学会」(京都開催)で9月17日に発表された。
腹部大動脈瘤とは腹部の大動脈が腫れる疾患で、こぶのようになった大動脈壁は正常部位よりも脆く、破裂しやすくなる。腹部大動脈が破裂すると多量に出血するため、8割以上が死に至る重篤な疾患だ。
腹部大動脈瘤は突然死をもたらす疾患の中でも代表的なものの1つで、アインシュタインや司馬遼太郎などの著名人の死因としても知られており、50歳以上の男性の5%近くが腹部動脈瘤を罹患していると考えられている。
しかし、この疾患は自覚症状がないため、ほかの疾患の診察や健康診断などで測定した腹部エコーやCTなどの画像から偶然見つからない限り、見過ごされているのが現状だ。さらに患者が死に至ってはじめて腹部大動脈瘤が発見される場合も多いため、病態の解明や、直接的な原因の解明が遅れていた。
こうした理由により、現在行われている腹部大動脈瘤の治療は、手術で膨れた部分を取り除くか、「ステントグラフト」と呼ばれる血管補強材を腹部大動脈内に挿入するという外科的なものに限られ、内科的な予防法や治療法の確立は進んでいないのが現状だ。
腹部大動脈瘤の病態について、詳細を明らかにすることができれば、身体的な負担の少ない内科的な予防法や治療法の確立へ道が開ける可能性があるのである。
今回、手術で切除した腹部大動脈瘤について瀬藤教授が中心となって、島津製作所と共同開発した「質量顕微鏡」(画像1)で腹部大動脈壁の分析を行った結果、こぶを形成している部位とこぶを形成していない部位では血液量に違いがあることが発見された。
質量顕微鏡法を用いると、組織などに含まれるさまざまな分子の質量を測定するだけにとどまらず、それら何百もの分子それぞれの分布をそれぞれ画像として1度に測定することが可能だ。
研究グループは今回、手術で取り出した30例の腹部大動脈瘤について、腹部大動脈壁に含まれる分子の分布画像を質量顕微鏡で測定し、血液中に含まれる色素ヘモグロビンの構成分子(ヘムB)の含有量を比較した。
その結果、致死的な破裂の可能性が年間10%以上といわれている5cm以上の大動脈瘤とそれ以下のものを比較した結果、5cm以上の病変部では、ヘムBの含有量が約半分となっていることが発見されたのである(画像2)。
ヘムBの含有量は血液量に比例することから、この結果は、こぶを形成している腹部大動脈壁では流れる血液量が少なくなっていることを示しているという。なお今回得られた結果は、病変部位の観察と指標分子の分布測定を行うことのできる質量顕微鏡を利用しなければ得られなかったものだとしている。
画像2は、質量顕微鏡法の概念図だ。質量顕微鏡法では、観察したい組織の切片の表面にマトリックスを散布したものを試料とする。そのため、通常の病理画像を観察する時のように試料を確認した後、特に観察したい部位を狙ってレーザーを照射することが可能となる仕組みだ。
レーザーを照射すると、照射点に含まれる分子が一度にイオン化される。それらを質量分析すれば、各レーザーの照射スポットごとに含まれる分子のプロファイルを得られる上に、それぞれの分子を同定することができるというわけだ。従って、観察したい試料をレーザーで走査すれば、イオン化された分子の分布を知ることができるのである。
この結果を受け、腹部大動脈壁の内部を走る血管について、こぶのある部位とない部位において、その形状に違いがあるかを観察した。その結果、こぶのある腹部大動脈壁では、そこに血液を供給する細い血管が狭くなっていることが発見されたのである(画像3)。
画像3は、程度の異なる腹部大動脈瘤の壁内におけるヘムB含有量の違いがわかるように画像を並べたもの。左の列は従来の顕微鏡による病理画像、中央の列は細胞膜を構成する一般的な脂質「POPC」を、右の列は血液を示す分子のヘムBを、それぞれ質量顕微鏡で画像化したものだ。上段はこぶを形成していない腹部大動脈壁、下段はこぶを形成している腹部大動脈壁の画像を示す。
病理画像(左)と脂質の分布(中央)は、こぶの有無に関わらず大きな違いは見られなかった。一方、ヘムB(右)は、こぶを形成していない部位(上段)では多く存在していたが、こぶを形成している腹部大動脈壁(下段)ではほとんど見られないという、大きな違いが見られた。これらの結果から、こぶを形成した腹部大動脈壁内部では血流が少ないために十分な酸素や栄養が行き渡らず、大動脈壁が脆くなっている可能性が示唆されたのである。
先端の計測分析装置である質量顕微鏡を用いた今回の研究により、腹部大動脈瘤の病変部位では大動脈壁に栄養を届ける血管が狭くなり、血流量が少ない状態であることが確認された(画像4)。
画像4は、腹部大動脈瘤における、こぶの形成の有無に応じて見出された血管形状の違い。腹部大動脈壁で血液の量が減っていたことを手がかりにして腹部大動脈壁に血液を送る血管の形状を観察した。こぶを形成していない部位を流れる血管(上段)は中が広く開通しているのに対し、こぶのある部位を流れる血管(下段)では血管の壁が厚くなり、血液が通るところが狭くなっている。
この病態情報から、血流を改善すれば、軽度の腹部大動脈瘤の進行や手術後の再発を抑えられる可能性が示唆された形だ。同様に、ストレッチなどの局所の血行をよくする運動や、炎症を抑え血管を詰まりにくくする薬剤で腹部大動脈瘤を予防できる可能性がある。
今回の研究成果を受けて、海野講師の研究グループを中心にした、腹部大動脈瘤の新たな治療方法の開発に向けた臨床研究が始まっている。具体的には、ほかの循環器疾患の治療に用いられるような循環改善薬を、腹部大動脈瘤の術後の再発防止に用いることが可能かどうかの臨床研究を実施している状況だ。さらに、腹部大動脈瘤の内科的治療に有効となりうる薬剤の探索を行い、今後の治療につなげることを目指している。
また今回の質量顕微鏡の実用化は、浜松医科大学と島津製作所を中心とした開発チームによって、光学顕微鏡により試料(生体組織など)の観察・分析対象を決め、そこに含まれる分子について大気圧下での質量分析が可能な装置として開発が進められてきた。
従来の質量分析法では、試料となる生体組織を破砕して得られた混合液体に何らかの前処理が必要だ。そのため、ある分子が特定部位に高濃度で局在しているのか、組織全体に低濃度で一様に含まれているのかわからないという欠点があった。
質量顕微鏡では、前述したように組織切片にレーザーを照射して含有分子をイオン化して検出する。そのため、組織のごく一部に病気を示す特定の分子が局在している場合でも、その分布を画像として検出することが可能だ。
さらに同装置には、島津製作所の田中耕一氏が開発し、2002年のノーベル化学賞を受賞した「ソフトイオン化法」を発展させた「マトリックス支援レーザー脱離イオン化(MALDI)法」が応用されている。
MALDI法の特徴により、レーザーを照射するスポットに含まれる複数の分子を同時にイオン化して分析できることから、組織の違いによる含有分子の違いやそれらの分布の違いも一度に画像として測定し、比較することができるのが大きな特徴だ。
同装置は、MALDI法を応用した実用段階の装置として世界最高となる5μm以下の空間分解能を誇っており、光学顕微鏡像に対応した分子の分布状態を明らかにすることができるのである。
なおJSTでは平成23年度から、先端計測分析技術・機器開発プログラムで開発された試作機を外部研究者にも解放し、共同利用を促す取り組み「開発成果の活用・普及促進」を実施中だ。質量顕微鏡もその一環として、さまざまな分野の研究者が活用している。