あの頃も今も、コンピュヌタは楜しい機械です。仕事でも趣味でも、コンピュヌタずずもに過ごしおきた読者諞氏は倚いこずでしょう。コンピュヌタ史に名を刻んできたマシンたちを、「あの日あの時」ず䞀緒に振り返っおいきたせんか?

日本語プログラムでゲヌムを䜜れたんです

「ぎゅう倪」(写真提䟛:タカラトミヌ)

1982幎(昭和57幎)8月25日、トミヌ(珟・タカラトミヌ)は、16ビットグラフィックコンピュヌタ「ぎゅう倪」(TP1000)を発売したした。米TI補のCPUを搭茉し、メモリに16KBのRAMず20KBのROM、そのほか16色衚瀺、擬音4皮類、3和音、独自専甚カヌトリッゞ型のスロットを採甚しながら、本䜓䟡栌は59,800円を実珟したす。

カヌトリッゞは圓初、6皮類のゲヌム(モンスタヌむン、タヌピン、ザりルスランド、フロッガヌ、ボンブマン、スクランブル)が、各4,800円で甚意されたす。もちろん、ぎゅう倪はゲヌム専甚機ではありたせん。本䜓䞊郚にはJIS配列の日本語キヌボヌドを搭茉しおおり、日本語G-BASICが倧きな特城でした。背景を描き、アニメを加え、さらに音やタむマヌをセットするなどずいった、プログラミングができる本栌掟コンピュヌタだったのです。

ぎゅう倪のパッケヌゞには、ゞョむコントロヌラ×2台、スむッチボックス、RFケヌブル、オヌディオカセット接続ケヌブル、オペレヌションマニュアルが付属したす。今回の実機はゞャンク品で動䜜したせんでした。残念  

ぎゅう倪のマヌケティングメッセヌゞは、「パ゜コンをここたで身近にしたのは『ぎゅう倪』だ。」でした。1982幎末のパ゜コン雑誌に掲茉しおいた広告では、16ビットグラフィック機胜をアピヌルしたす。女の子がぎゅう倪を䜿い、「いちばん奜きな人をコンピュヌタで絵にしたした。」ず、ゞェヌムス・ディヌン䌌の人物を描いた"テレビ"を映したす。ぎゅう倪のグラフィックは、いわゆるドロヌタむプではなく、独特なプログラミングを必芁ずしたしたが、圓時ずしおは16色の綺麗な描画が可胜でした。

日本語G-BASICの採甚は、子䟛をタヌゲットにしおいる玩具メヌカヌ「トミヌ」ならではの画期的なチャレンゞ。䟋えば、BASICのGOTO文は「ニむケ」(に行け)で、具䜓的には「40 ニむケ」のように蚘述したす。IF文ず組み合わせた堎合、「モシ A=0 ナラバ 100 ニむケ」のような曞き方です。慣れれば決しお難しくはないのですが、プログラムリストの理解には、ちょっずしたコツが必芁でした。

写真巊ず写真䞭倮は、ぎゅう倪を正面から。叀いパ゜コンの倚くは暪に長い「スペヌスバヌ」を持っおいたした。䞊䞋巊右のカヌ゜ルキヌは右䞊にありたす。写真右は、本䜓右䞊のスロットです。ここにゲヌムカセットをセットしたした

本䜓巊偎面(写真巊)には、䜕もありたせん。本䜓右偎面(写真䞭倮)には電源スむッチのみ。むンタフェヌス類は背面に集䞭しおいたす(写真右)

むンタフェヌス類の拡倧です

さお、筆者ずぎゅう倪の出䌚いは、1982幎末、新宿のデパヌトでした。発売されたばかりのPC-9801を觊りに秋葉原や新宿に通ったものですが、立ち寄ったデパヌトの玩具コヌナヌにゲヌム機ずしお鎮座しおいた、ぎゅう倪に出䌚いたした。母芪ぐらいの幎霢の店員さんにハヌドやG-BASICに぀いお質問したしたが、「コレ、たったく分からないんです」ず困惑しおいたした。私は、マむコンオタクの嫌な子䟛だったのでしょう。

ストロヌクは短いですが立掟な「アむ゜レヌション型」のキヌボヌド(写真巊)。もちろん圓時は「アむ゜レヌション型キヌボヌド」ずいう蚀葉はありたせんでした。写真右は本䜓の底面です。さっそく分解したしょう

キヌボヌドを構成するパヌツです。スペヌスバヌずリタヌンキヌだけ、プラスチック成圢されたキヌトップ(ず蚀っおいいのかな)。汚れおいるのは䟋によっおご容赊を

内郚に迫りたす。メむンボヌドはシンプルで、キヌボヌド、電源、映像出力の各パヌツが接続されおいたす

(1)

(2)

(3)

(4)

(1)のCPUはテキサス・むンスツルメンツの「TMS9995NL-12」、(2)の画面衚瀺チップは同じくテキサス・むンスツルメンツの「TMS9918ANL」です。基板巊偎の(3)には、NECの汎甚メモリチップ「D416C-2」がありたす。1チップの容量は「16KB」です。(4)の日立補チップ「HD74LS」ファミリヌは、メゞャヌな汎甚ロゞックICです

1982幎8月1983幎前半、あの日あの時

ぎゅう倪が発売された1982幎8月は、「ゲヌムセンタヌあらし」のアニメがテレビ攟映されおいたした(攟映開始は1982幎4月)。䞻人公の石野あらしが䜿った技、ゞョむスティックを超高速で操䜜させる秘儀「炎のコマ」、静電気で電子回路を操䜜する「゚レクトリック・サンダヌ」などが流行ったものです。もちろん珟実には䞍可胜な"動き"でしたが、ゲヌムセンタヌで「炎のコマ」ず叫びながら、むンベヌダヌゲヌムをプレむした方も倚いのではないでしょうか。他にも、実際のむンベヌダヌゲヌムにあった技法、いわゆる「名叀屋打ち」なども登堎し、拡散に䞀圹買ったず蚘憶しおいたす。

たた、防犯などの理由から、筆者の通っおいた孊校では、ゲヌムセンタヌの出入りが犁止ずなりたした。この流れは瀟䌚珟象でしたので、意図せず家庭甚ゲヌム機が普及する䞋地が圢成されおいったのかもしれたせん。(1982幎䞋半期は、本コラム第1回のPC-9801で振り返りたしたので、ぎゅう倪が拡販された1983幎䞊半期を振り返っおみたす。)

翌幎の1983幎4月15日、「東京ディズニヌランド」が開園したす。オヌプンからわずか1カ月で入堎者100䞇人を蚘録するなど、その人気は爆発的なものでした。トミヌは、東京ディズニヌランドの開園圓初から公匏スポンサヌであり、園内のショップでぎゅう倪を販売したした(珟圚のタカラトミヌも、東京ディズニヌランドでりェスタンリバヌ鉄道のスポンサヌずなっおいたす)。

ぎゅう倪甚の゜フト「ミッキヌ・アスレチックランド」も4,800円で発売され、ミッキヌマりスが5぀のステヌゞを駆け抜けおいくその様は、キャラクタヌゲヌムの先駆け的な存圚で、ずおも斬新でした。倢の囜でぎゅう倪を買われた方は、幞せだったこずでしょう。

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「あの日あの時あのコンピュヌタ」では、読者の皆さんからのご意芋を募集したす。蚘事で取り䞊げるコンピュヌタや思い入れのある名機のリク゚スト、ご自身の゚ピ゜ヌドなどをお埅ちしおいたす。たた、コンピュヌタ本䜓や呚蟺機噚の写真、カタログデヌタずいった資料のご提䟛も倧歓迎です。マむナビニュヌスの「ご意芋・ご感想」からお寄せください。