フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)


大東京のおおきなビル

星製薬の社長・星一の講演を1922年 (大正11) 秋に大阪で聴いた森澤信夫は、星からの誘いで、思いがけず東京訪問の機会を得た。信夫は、星が用意してくれた汽車賃と、大阪の叔母がくれた小遣いをもち、翌年の1月中旬に東京・京橋にある星製薬の本社を訪ねた。

ほんの数分面会しただけの信夫を星が東京に呼んだのは、一見ふしぎな話に思える。しかし星は人材を大切にし、全国の特約店教育に力を入れて、事業を通じて人間をつくる努力をつねにしていたひとだった。各地で特約店を一堂に集めてはみずから講演をおこなうほか、全国の特約店の店主や子息を東京に招いて講習会もおこなった。その際の費用は、往復の旅費もふくめて、本社で負担していた。[注1] また星自身、信夫の年齢のころに古本を売りながら日本国内を自転車や徒歩でまわったり、渡米後も学費を工面するために働き口を探したりと、人生の難局に突き当たったとき、さまざまな人のところを訪ね、飛びこみ、交渉して苦難を切り抜けてきた。信夫の話を聞き、素直な情熱をもって自分に会いにきたこの若者に、若き日の自分の姿を重ね、「見どころがある」と感じた星は、だから信夫に興味をもったのではないだろうか。

星製薬本社は、京橋の交差点に面したところにあった。星は、1915年 (大正4) に4階建ての鉄筋コンクリートの建物を建て、その後さらに7階建てに改築した。鉄筋コンクリートの建物を民間で建てたのは、星製薬が最初だったという。建築を担当したのは清水組。京橋から日本橋にかけてのなかで、もっとも高い、りっぱなビルだった。[注2]

一番高いビルにしたのには、理由がある。星は、製薬の仕事は、薬の効能を知らせるためにも宣伝が重要だと考えていた。だから会社の建物の偉容でもって、その実力を世に知らせるべきだと思っていたのだ。[注3] 屋上には赤い星マークの大きい電気看板が掲げられており、はじめて東京を訪れた信夫にも、その場所はすぐにわかった。

  • 東京・京橋の交差点にあった星製薬本社ビル (古絵葉書より/筆者所蔵)

信夫が受付をたずねると、すぐに最上階の社長室に通された。
「やあ、よく来たね」
星はにっこりと微笑んで、信夫をあたたかく迎えてくれた。
「はい。先生が来いと言われたので、大阪から出てきました」
「そうか。ちょうどこれから工場に行くところなんだが、一緒に行って見学しないか」
「はい、見せてもらいます。その前に、私、こんなものをつくったんです」

信夫は星に小さな器を差し出した。
「これはなんだ?」
それは、信夫が大川薬店のためにつくった丸薬の計数器だった。当時、製薬会社から薬店に卸されてくる丸薬のなかには、粒に大小ふぞろいなものがあり、一定数を数えるのに困っていた。そこで信夫は、硬貨の計数器のように、小さな丸いくぼみをたくさんつけた平たい器をつくった。ここに丸薬を入れて揺すると、即座に100粒なり200粒なりを数えて分けることができる便利な道具だ。
「なるほど、これはおもしろいな」
信夫が星に見せた、最初の発明品だった。

信夫は、社長専用車のパッカード[注4] に同乗し、星とともに工場に向かった。星製薬の工場は、五反田にあった。

最新鋭の製薬工場

ときを一旦、現代に戻そう。
五反田駅から10分ほど歩いたところにTOCビルというおおきな建物がある。じつはこれが、星製薬工場跡に建てられたビルだ。その広大さを見れば、信夫が連れていかれた五反田工場の規模の大きさも、すこし想像ができる。

  • 星製薬工場跡地に建てられた、東京・五反田のTOCビル (2023年1月撮影)

星製薬の工場は、近くに設立した星製薬商業学校 (現・星薬科大学) をあわせると敷地が2万3,000坪 (約76,033㎡) 、建坪はのべ1万坪を超える広さ。鉄筋コンクリート4階建てで、工場内部には最新設備を完備していた。当時、東京名物のひとつにも数えられ、見学希望者の申し込みが毎日殺到した。欧米に工場見学に行くひとは、星製薬の工場を見学したうえで、欧米の施設と比較していたという話もある。すこし後になるが、ドイツからフリッツ・ハーバー博士が来日したとき、〈東洋のはての日本に、このように完備した製薬工場があるとは考えてもいなかった〉[注5]と驚嘆の声を上げたという。

そんな工場に連れて行かれたのである。信夫がそれまで知っていた世界は、幼少期を過ごした兵庫県の太田村、10代後半を過ごした明石ぐらいのもので、神戸や大阪もすこしは知っていたものの、長く居住をしたわけでもない。五反田工場のあまりの大きさに、信夫は度肝を抜かれた。

  • 五反田の広大な敷地にあった星製薬工場 (古絵葉書より/筆者所蔵)

星は、信夫に工場を見せてやるよう、弟で工場長の星三郎に伝えた。
「どうだね、森澤くん。2、3日こちらに泊まって、ゆっくり工場を見ていかないか」
「ありがとうございます。しかし泊まれといわれても、泊まる場所も金もありません」
そこで星は、信夫の泊まるところを世話してやるよう工場長に言いつけた。信夫は、工場のすこし先にある星製薬商業学校の職員室に泊めてもらうことになった。

星からの提案

信夫はそれから丸3日間、工場を見学した。当時東洋一といわれた星製薬の工場には、数々の製薬機械がたちならび、信夫いわく、1,400~1,500もの人々が働いていた。その大部分は若い女工であったため、他の工場とはちがう、ソフトな華やいだ雰囲気を感じたという。しかしいかんせん、工場の規模がおおきすぎる。いくら信夫が機械好きであっても、製薬の知識はかけらももたぬ門外漢の身である。3日間見学した程度では、工場のシステムを飲みこめるはずもなかった。

大阪に戻ろうとおもい、滞在中のお礼と帰阪のあいさつのため、信夫はふたたび、京橋の本社ビルに星をたずねた。
「やあ、森澤くん。工場を見てまわったかね。様子は飲みこめたか?」
「見せてもらいましたが、私にはよくわかりません」
しかし信夫は、自分なりに気づいたことを星に伝えた。星の前で、工場の女性工員からもらったハトロン紙とボール紙でつくった型紙とで封筒をつくった。折ったハトロン紙から芯の型紙を引き抜くと、形がそろうだけでなく、手間も半分になる。また、瓶に詰めた薬をそのまま次の作業に送ると、倒れやすく安定しないため、仕事がしづらい。それを防ぐために、瓶が20本ほど入る枡形の浅い箱をつくってはどうですか、とボール紙でつくったひな型を見せた。
「それはいいな」
星は後日、この2つの提案をすぐに実行した。
ほかにも、星から工場の印象をいろいろとたずねられ、気おくれを知らぬ信夫はおもったことを率直に述べた。彼の言葉に静かに耳を傾けていた星は、唐突に「どうだね、ここで社員として働かないか」と言った。

おもいがけない話だった。信夫に異存があるはずがない。しかし信夫は首を横に振った。
「大阪の叔母からは2、3日の暇しかもらっていません。そしていまは冬で、うどんの商売が一番いそがしい季節です。だからまずは大阪に戻って手伝います。先生が私に来いとおっしゃるんでしたら、往復の汽車賃をください。春になって暇になったら、もう一度上京してまいります」

信夫は汽車賃をもらい、大阪の叔母のところに戻った。そしてうどん屋の手伝い仕事に区切りをつけたあと、同1923年 (大正12) 3月にふたたび上京し、正式に星製薬に入社した。

(つづく)


[注1] 大山恵佐『努力と信念の世界人 星一評伝』大空社、1997 pp.131-135
[注2] 大山恵佐『努力と信念の世界人 星一評伝』大空社、1997 p.137
[注3] 大山恵佐『努力と信念の世界人 星一評伝』大空社、1997 p.138
[注4] かつてアメリカに実在した高級車メーカー
[注5]星新一『人民は弱し 官吏は強し』新潮文庫、1978 p.150/初出は文藝春秋、1967

【おもな参考文献】
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
沢田玩治『写植に生きる 森澤信夫』モリサワ、2000
産業研究所編「世界に羽打く日本の写植機 森澤信夫」『わが青春時代(1) 』産業研究所、1968 pp.185-245
「写植に生きる 森沢信夫」『男の軌跡 第五集』日刊工業新聞編集局 編、にっかん書房 発行、1987 pp.169-204
星新一『明治・父・アメリカ』新潮文庫、1978/初出は筑摩書房、1975/電子版は新潮社、2011(25刷改版、2007が底本)
星新一『人民は弱し 官吏は強し』新潮文庫、1978/初出は文藝春秋、1967
大山恵佐『努力と信念の世界人 星一評伝』大空社、1997/初出は共和書房、1949

【資料協力】
株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影