数々の華々しい成功に彩られている宇宙開発だが、その栄光の影には、失敗の歴史が連なっている。多くの人から望まれるもさまざまな事情により実現しなかったもの。あるいはごく少数からしか望まれず、消えるべくして消えたもの……。この連載では、そんな宇宙開発の"影"の歴史を振り返っていく。


日本において、欧州の宇宙開発の存在感は、その実績とは不釣り合いなほどに低い。

たとえば米国のロケットと聞いて、アポロやサターン、スペース・シャトルといった名前を諳んじることはできても、欧州のロケットや衛星の名前を答えられる人は少ない。フィクションでの描かれ方もハリウッド映画におけるNASA以下であり、欧州が誇る主力ロケット「アリアン」も朝鮮民謡の「アリラン」と間違われたり、南米仏領ギアナにあるロケット発射場も、アフリカの「ギニア」にあると勘違いされる始末である。

それでも、フランスが世界で3番目の衛星打ち上げ国であり、月や火星、金星に探査機を飛ばし、さらに彗星への着陸にも成功し、そしてそれらの打ち上げを支えるアリアン・ロケットが、商業ロケットとして世界で一番の成功者であるといった事実は揺らぐことはない。

だが、そんな欧州も過去に、ロケット開発であまりにも手痛い「大失敗」を経験している。しかしその失敗を乗り越え、そしてその教訓があったからこそ、その後の欧州のロケットは性能も信頼性もともに強靭なものになった。

今回は、そんな失敗作ながら、その後の歴史にとって大きな礎となった、欧州初の共同開発ロケット「ヨーロッパ」を取り上げる。

「ヨーロッパ」ロケット (C) ESA

道なき道を行く

1957年10月4日、ソヴィエト連邦(ソ連)が世界初の人工衛星「スプートニク」の打ち上げに成功し、続いて翌1958年1月31日には、米国も人工衛星の打ち上げに成功。人類は宇宙時代を迎えた。両国は地球周辺に人工衛星や人を飛ばし、さらに月や火星、金星へも探査機を飛ばし、やがて人類の月への一番乗りを目指した競争を繰り広げることになる。

しかし、宇宙に目を向けていたのは、この2カ国だけではなかった。第二次世界大戦において、ナチス・ドイツに一度はその国土を奪われながらも、最終的には取り返し、戦勝国となったフランスもまた、来るべき宇宙時代を見据えて動き始めていた。

大戦後に始まった冷戦の中で、フランスは基本的には米国側に付きつつも、米国とも、もちろんソ連とも一定の距離を置いた、「第三極」としての地位を目指し、政治や経済、軍事や科学・技術、そして宇宙開発においても、独自の路線を歩むことになった。

フランスの宇宙開発への取り組みは、戦後すぐに始まっている。米ソと同様、フランスもまたドイツから「V-2」ミサイルを持ち帰って分析を行い、さらにドイツ人技術者を交えて、V-2の改良型を開発する検討も行った。しかし、基本的にV-2を発展させてロケットを大型化していった米ソとはやや異なり、フランスは早々に硝酸とケロシン、あるいは四酸化二窒素と非対称ジメチルヒドラジンといった推進剤を使うロケットの開発に挑んだ。とくに後者には毒性があるものの、常温で保存ができるため、V-2が使う極低温の液体酸素よりもミサイルに向いているという特長がある。

フランスはまず、小型の観測ロケットを開発して打ち上げを重ね、1957年から1958年にかけて実施された国際地球観測年プロジェクトにも参加し、観測機器の打ち上げを行っている。米ソが人工衛星の打ち上げに成功したのは、まさにこのまっただ中のことだった。

ソ連とも米国とも距離を置き、なおかつ対等に張り合っていくことを基本方針とするフランスにとっては、米ソが人工衛星を打ち上げたのならば、フランスも打ち上げなければならないということになる。1961年、フランスは宇宙開発を担うフランス宇宙科学センター(CNES)を設立し、人工衛星の打ち上げを目指した「ディアマン」ロケットの開発に着手した。

フランスは1959年から、弾道ミサイルの技術獲得を目指して、アゲートやトパーズ、リュビ、エムロード、サフィールといったロケットの開発を行っていた。これらロケットの名前が宝石から取られていることから「宝石計画」とも呼ばれ、ディアマンはこの宝石計画で培われた技術を組み合わせて開発された。

たとえばディアマンの第1段にはエムロード、サフィールの第1段の液体ロケットが、第2段にはトパーズの第1段(サフィールの第2段)、第3段にはリュビの第2段の固体ロケットが流用された。

ディアマン・シリーズの初期型にあたる「ディアマンA」では、第1段エンジンに硝酸とテレビン油を推進剤として使用していたが、その後開発された改良型の「ディアマンB」と「ディアマンBP4」では、より高性能な四酸化二窒素と非対称ジメチルヒドラジンを使うエンジンを採用し、大戦後に着手したフランス独自のロケット開発が、着実に実を結んでいたことがうかがえる。

そして1965年11月26日、アルジェリアにあるアマギールという町から、人工衛星「アステリクス」を積んだ「ディアマンA」が打ち上げられた。初打ち上げながら見事に成功を収め、フランスはソ連、米国に遅れること8年、世界で3番目の衛星打ち上げ国となった。ディアマンは改良をはさみつつ計12機が打ち上げられ、1975年に運用を終えた。

「ディアマンA」ロケット (C) CNES

宝石計画からいかにしてディアマン・ロケットが生まれたかを描いた図 (C) CNES

そしてフランスは、ディアマンと並行し、欧州各国が共同で開発する大型ロケットの開発にも参加していた。そのロケットの名は、欧州そのものの名を冠した「ヨーロッパ」であった。

欧州共同開発の「ヨーロッパ」ロケット

ヨーロッパ・ロケットの開発の中心に立っていたのは、フランスではなく英国だった。英国は1950年代後半、米国から「アトラス」ロケットの技術を導入し、「ブルー・ストリーク」という準中距離弾道ミサイルの開発を進めていたが、予算の関係で1960年に中止されることになった。その後、不要になったブルー・ストリークを、人工衛星を打ち上げるロケットに転用しようという案が生まれた。

当初は英国単独で開発することが検討されたが、次第に西欧諸国全体を巻き込んでいき、やがて英国を筆頭に、フランス、西ドイツ、イタリア、ベルギー、そしてオランダが参加することになり、1962年には開発を担当する欧州打ち上げ機開発機構「ELDO」(European Launcher Developmant Organization)が設立され、「ヨーロッパ」ロケットの開発が始まった。

英国にとってはブルー・ストリークが無駄にならないばかりか、ロケットの第1段部分を提供することで開発の主導権が握れ、何より人工衛星を打ち上げられるというおまけが付く(当時、英国はまだ人工衛星を打ち上げていなかった)。一方フランスにとっては、ディアマンよりも大型のロケットを独自に開発する手間が省けるという利点があり、またかねてより独自のロケット技術を持っていることで、ELDOにおける発言権も確保できた。

ヨーロッパ・ロケットの第1段は前述のとおり、ブルー・ストリークを提供する英国が担当。第2段はフランスが担当し、第3段はドイツが担当。またイタリアは衛星フェアリングと人工衛星の開発を、オランダは通信装置と誘導システム、ベルギーは地上局を担当した。発射地点は英連邦のひとつであるオーストラリアのウーメラ砂漠が選ばれた。

打ち上げ能力は地球低軌道に1150kg、当時としてはまずまずの性能だった。また赤道直下にあるギアナから打ち上げることで、静止軌道に170kgの衛星を投入することもできた。

こうして欧州を挙げて開発が始まったヨーロッパ・ロケットは、まず1964年から65年にかけて、第1段のブルー・ストリークのみの試験打ち上げが3回実施され、すべて成功した。続いてダミー(実物大模型)の第2段を搭載した状態で打ち上げが1966年に2回行われ、これもおおむね成功した。

幸先の良いスタートを切ったヨーロッパ・ロケットは、続いて実機の第2段と、ダミーの第3段を搭載した打ち上げに移行した。第1段のみの試験打ち上げと並行して、フランスは第2段の地上試験も行っており、1966年に良好な成績を残していた。しかし1967年に2回行われた打ち上げは、2回とも第2段の問題により失敗に終わった。

計画はそのまま、実機の第3段を搭載した打ち上げに移行し、1968年と1969年に1回ずつ打ち上げられたが、今度は第3段の問題により失敗に終わった。1970年にはさらにもう1機の打ち上げに挑むが、衛星フェアリングが開かないという問題で打ち上げに失敗するという散々な有様だった。

その失敗の過程で、1968年に英国は見切りをつけ、計画から離脱する(ただし英国製の第1段の供給は続けられた)。その後はフランスとイタリアが計画を主導することになり、第4段を追加した「ヨーロッパ2」を開発する。そして射場をフランスが保有するギアナ宇宙センターに移し、1971年11月5日に打ち上げたが、第3段の構造破壊により、失敗に終わる。

結局、ヨーロッパ・ロケットは一度も人工衛星を打ち上げることができないまま、この打ち上げを最後に計画は中止されることになった。

ヨーロッパ・ロケットの第1段(ブルー・ストリーク)のみの打ち上げ (C) ESA

ヨーロッパ・ロケット (C) ESA

シンフォニー事件

ヨーロッパ・ロケットの失敗後、欧州ではロケット開発よりも衛星開発に重点を置き、打ち上げは米ソなど他国に依頼しようという考えが生まれた。独自にロケットをもつことは重要であることは誰もが頷くところであっただろうが、しかしヨーロッパ・ロケットの散々な結果を考えれば、こうした考えに流れたのは仕方がないところであろう。

そしてフランスと西ドイツは「シンフォニー」と呼ばれる通信衛星を開発し、打ち上げをNASAに依頼した。ところがNASAは、打ち上げを引き受ける条件として「シンフォニーを商業目的で使わないこと」という要求を出した。シンフォニーは技術試験を目的にした衛星ではあったものの、試験完了後は商業目的で使うことを考えていたため、仏独はこの要求に大いに面食らったという。

この背景には、当時の衛星通信事業を国際電気通信衛星機構(インテルサット)が独占していたことがあった。現在も民間企業という形で残るインテルサットは当時、非営利の国際機関ではあったものの、米国が主導者として君臨していた。そして米国は、インテルサットが唯一無二の衛星通信システムであリ続けることを狙っていたのである。そのため、当時の米国には「米国はインテルサット以外の衛星通信システムを構築しようとする国からの衛星開発支援や打ち上げ依頼は拒否する」という決まりがあり、これがシンフォニーの打ち上げ依頼に条件を課した理由であった。

最終的に欧州はこの条件を飲み、1974年と1975年に1機ずつ、2機のシンフォニーが米国のロケットによって打ち上げられた。しかし、もし欧州が独自のロケットをもっていれば、つまりヨーロッパ・ロケット計画が成功していれば、このような屈辱的な要求はされず、なによりシンフォニーを自由に宇宙へ飛ばし、そして自由に使えたはずだった。

この米国への遺恨と、ヨーロッパ・ロケットへの後悔は、欧州にとって「シンフォニー事件」として深く刻み込まれることになった。

屍を越えて

シンフォニー事件を経て、欧州では「やはり独自のロケットが必要である」という考えが再燃し、新しいロケット開発計画が立ち上げられることになった。

この新計画では、ヨーロッパ・ロケットと同じ轍を踏まないよう、新たな開発体制が敷かれた。そもそも、ヨーロッパ・ロケットが失敗した理由は、技術的には各号機さまざまではあるが、その原因を突き詰めていくと開発体制の不備にあった。たとえば参加している各国は言語も違うし、英国はヤード・ポンド法、フランスやドイツはメートル法を使うなど、単位系も違う。そのため第1段のみの試験打ち上げ、第2段の地上試験などでは問題はなくとも、それらを組み合わせると問題が発生するということが多かった。

そして何より、共同開発における協調性を重視するあまり、責任の所在がはっきりしていなかった。このことは開発に参加した各国、とりわけフランスにとって、痛くも貴重な教訓となった。

そこでこの新計画を始めるにあたり、まずヨーロッパ・ロケットの開発を担ったELDOと、当時存在していた欧州宇宙研究機構(ESRO)とを統合して、欧州宇宙機関(ESA)を設立し、ここに予算と計画の管理権限をもたせた。そして欧州共同開発ではあるものの、出資比率で第一位だったフランスを責任者とすることで、責任の所在をはっきりとさせた。

こうしてスタートした新計画には、「アリアン」という名前が与えられた。アリアンとはギリシア神話に登場する「アリアドネー」のことである(アリアドネーのフランス語表記「Ariane」(アリアーヌ)を英語読みしたものがアリアン)。

ギリシア神話では、地中海に浮かぶクレーテー島にはミーノータウロスという怪物が棲んでいたとされる。この怪物に脅かされていたアテーナイ国のテーセウス王はこの怪物を倒すことを決意し、クレーテー島に乗り込む。しかしミーノータウロスは脱出不可能な迷宮の中におり、テーセウスが生きて帰れる保証はなかった。 そこに、クレーテー島の王の娘であるアリアドネーが現れ、テーセウスに惚れていた彼女は、彼に糸を手渡す。迷宮の入り口に糸をくくりつけて垂らしながら進み、帰りはその糸を辿ることで、迷わずに帰って来ることを狙ったアイディアだった。そしてテーセウスは見事ミーノータウロスを倒し、無事に迷宮から抜け出すことに成功した。

この物語は「アリアドネーの糸」という言葉となり、混迷から抜け出したり、難問を解決したりするため鍵という意味で、さまざまなところで使われている。

新たなる欧州共同開発のロケットに「アリアン」と名付けたのは、当時のフランスの産業研究大臣シャルボネルだった。そこに込められた意図は、これまで見てきた歴史から一目瞭然であろう。すなわち、ヨーロッパ・ロケットの失敗、シンフォニー事件で混迷の中にあった欧州の宇宙開発を、アリアン・ロケットによって救い出す、ということである。

そしてそれは果たされることになった。このアリアン・ロケットの開発は見事に成功し、1979年に「アリアン1」が打ち上げられた。その後「アリアン2」、「アリアン3」と改良が重ねられた後、1988年からは「アリアン4」が登場した。このアリアン4は性能、成功率ともに申し分ない傑作機として活躍し、2003年の引退までに116機の打ち上げで失敗はわずか3回、成功率97.4%という好成績を残し、欧州の宇宙開発を自立させる目的を果たしたばかりか、他国の人工衛星の商業打ち上げも多数手がけ、大成功を収めた。

アリアン1ロケット (C) ESA

アリアン4ロケット (C) ESA

1996年には、より進んだ技術を取り入れた「アリアン5」ロケットが登場し、2016年6月現在までに86機が打ち上げられ、72機の連続成功を達成。アリアンスペースも静止衛星の商業打ち上げ市場で約半分のシェアを維持し続けるなど、順風満帆な歩みを続けている。

アリアン1から4には、ロケット・エンジンの推進剤に四酸化二窒素と非対称ジメチルヒドラジンの組み合わせを採用している。思い返すと、このエンジン技術は第二次世界大戦後から、観測ロケット、宝石計画、ディアマン、そしてヨーロッパ・ロケットの第2段と、脈々と受け継がれてきたフランス独自のものである。つまりアリアンの成功は、こうした長年にわたる技術の蓄積と、そして米ソに対抗して独自の路線を進むという意志の賜物と言えよう。

その後、現行のアリアン5ではより効率の良いエンジンを採用したが、その開発が成功したのも、それまでの技術の蓄積があったからこそである。そして欧州は今、新たにメタン・エンジンの開発に乗り出そうとしている。

ヨーロッパ・ロケットは衛星打ち上げにすべて失敗し、その点では失敗作と言っても良いだろうが、欧州の宇宙開発の歴史にとっては大きな奇貨となった。

欧州の現行ロケット「アリアン5」。2016年6月現在までに86機が打ち上げられ、72機の連続成功を達成している (C) ESA

欧州が開発中の次世代ロケット「アリアン6」 (C) ESA

【参考】

・Hill, C.N. A Vertical Empire: The History of the UK Rocket and Space Programme, 1950-1971. 1st ed., Imperial College Press, 2001, 260p.
・高松聖司. Arianespace en mouvement 進化を続けるアリアンスペース. アリアンスペース社, 2016, 52p.
・Blue Streak Family - Gunter's Space Page
 http://space.skyrocket.de/doc_lau_fam/blue_streak.htm
・The origins of Ariane / ESA history / Welcome to ESA / About Us / ESA
 http://www.esa.int/About_Us/Welcome_to_ESA/ESA_history/The_origins_of_Ariane
・Europa
 http://www.astronautix.com/lvs/europa.htm