前回『工場萌え』のヒットを考察したが、工場やコンビナートは被写体としてとりたてて新しいテーマではない。辿れば、1920~1930年代に機械や工場の幾何学的な美しさを写真で表現する試みが行なわれてきた。また、1970年代にドイツのベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻が発表した鉱山の建物や貯水灯などを撮影したシリーズや、80年代以降の畠山直哉が大判カメラで撮影した工場や建築現場などのシリーズも有名だ。今回は現代の工場写真の特長を見てみよう。(※文中敬称略)

『工場萌え』より (C)石井哲

冷静な眼差しの工場写真 ベッヒャー派と畠山直哉

『工場萌え』の工場写真とベッヒャー派や畠山直哉の写真を見比べてみると、工場に対する見方が全然違っていてとても面白いよね。ベッヒャー派とは、ドイツのベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻とヂュッセルドルフの芸術アカデミーの教え子たちを中心とした写真家たちのこと。ベッヒャー夫妻は1960年代から鉱山や工場の建物を「無名の彫刻」として、同じアングル、構図で撮影した「タイポロジー(類似系)」と称されるシリーズを発表していったんだ。大判カメラをがっしりと構えて、客観的に科学者のような視線で撮っていて、展示方法や写真集のレイアウトも均質でクールだった。ベッヒャー夫妻の『WATER TOWERS』(写真:1)という写真集は、ドイツ各地の水を貯めるタンクを撮影していているんだけども、この写真の撮り方はまるで植物学者が標本を採集しているような印象を受ける。

日本でも80年代以降の畠山直哉や小林のりおなど、大判カメラで撮影した工場や建築現場などをクールな視線で撮影する作家が登場する。畠山直哉の代表作『LIME WORKS』(写真:2)は石灰の採掘現場やセメント工場を撮った写真集で、1996年に木村伊衛兵賞を受賞している。『LIME WORKS』を見てみると、被写体は『工場萌え』と同じ工場なんだけど、畠山のほうが写真として強くてかっこいいいと思う。どうしても『工場萌え』の写真のほうがゆるい印象を受けてしまう。ベッヒャー派や畠山直哉たちは、工場の持っている複雑に絡み合う幾何学的な抽象図形の無機質な美しさや、質感を表現しようとした。それはある意味、「異化効果」を狙っているんだ。彼らは「異化」をプラスのイメージとして捕らえ、日常とは違う異次元世界のような、例えば映画の「未来世紀ブラジル」や「ブレードランナー」のようなイメージを表現しようとしている。テクノスケープを冷静に、しかもかっこよく捕らえているのが特長でもあるんだ。

写真:1『WATER TOWERS』 Hilla Becher/Bernd Becher 出版:Mit Pr 発行:1988年

『WATER TOWERS』より

『WATER TOWERS』より

写真:2 『LIME WORKS』 畠山直哉 出版:シナジー幾何学 発行:1996年 ※2004年6月に青幻舎から復刻版

『LIME WORKS』より

『LIME WORKS』より

ディテールにこだわるノスタルジックな眼差し

『工場萌え』などの作者は、テクノスケープを親しみやすい景観として捕らえている。つまり「同化」された風景なんだ。ベヒャー派の人たちがテクノスケープをいわば近未来の象徴として見ているのに対し、『工場萌え』の人たちはむしろ過去のものとして見ているという違いがある。「このへんの錆びがいいよね」とか、「階段の角度がいいよね」なんて言って、プラモデル組み立てていくみたいに、細かいディテールにこだわって見ている。映画で例えるなら「三丁目の夕日」の世界に近くて、ノスタルジックな部分で相通じる部分、寄りどころを見つけているようだね。昭和30年代は公害問題の出る前の話で、工場は街を活気づけるとプラスイメージが働いていた時代でもある。石炭産業の時代で、人が集まって街が大きくなって、工場がその発展のシンボルみたいな時だった。公害問題が出てきてから、完全にマイナスイメージに転換して「排除」されてしまったわけだけども。

はじめ工場の写真というとベッヒャー派や畠山のイメージが強くて、『工場萌え』は緩くて、何が伝えたいのかよくわからない印象を受けた。風景写真としての光と影のコントラストが見えなかったんだ。だけど現代の工場写真は親しみを持った見方、つまり同化の表現のほうが合っているんだね。見る側も親しみを持って見ることができる。ベッヒャー派や畠山たちの写真は異質な風景だから、自分たちとはかけ離れた世界に見えてしまうんだろう。

ベヒッャー派や畠山たちと、『工場萌え』のブームの間に、実は廃墟ブームがある。使われなくなった校舎や線路、炭坑などを探し求めるアレだよね。この廃墟ブームも人工物を撮っているんだけど、これはもう使われていない過去の遺物だから、非日常的な風景に分類できる。だけどノスタルジックが漂っている。『工場萌え』は、非日常的な部分を抜いてノスタルジックの部分を残している。だから廃墟ブームで出てきた小林伸一郎などの写真とも違うことがわかる。

デジタルだから可能な萌え写真

もうひとつは、『工場萌え』はデジタルカメラの世界だということ。工場はデジタルカメラの持っている細かな描写力にピッタリ合っている被写体なんだよね。基本的に『工場萌え』の写真は均一に光が回ったように、フラットに撮影されている。全てに光が当たり、細かいディテールがしっかり見えている。デジタルと銀塩の違いは夜に撮った写真でよくわかる。銀塩カメラは光と影のコントラストが強くて、光があたる部分は浮かび上がって闇は黒に沈んでしまう。デジタルカメラで撮ると、銀塩では闇にあたる暗い部分まできちんと写って、細部が見えてくる。これが『工場萌え』の写真の特長だと思うし、作者はそういう見え方が好きなんじゃないのかな。だからデジカメ時代の表現にピッタリとあった写真集だともいえる。

『工場萌え』を見て感じたことは、誰が撮っても同じような写真になること。ディテールまで見せるわけだから、同じような撮り方になるのも当然なんだけど、そこに撮影者の意図や想いなどは極力排除されている。工場写真の撮り方は決まっていて、撮る人より撮るポイントのほうが重要になる。その場所に行けば、誰が撮っても同じような写真が撮れるということ。誰でも撮れるからブームになる。ベッヒャー派や畠山直哉たちの写真を踏まえて『工場萌え』を見ていくと、被写体に対する考え方の違いや時代が顕著に見えてくるんだ。

『工場萌え』 大山顕(著)/石井哲(写真) 出版:東京書籍 発行:2007年3月

『工場萌え』より (C)石井哲

飯沢耕太郎(いいざわこうたろう)

写真評論家。日本大学芸術学部写真学科卒業、筑波大学大学院芸術学研究科博士課程 修了。
『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書)でサントリー学芸賞、『「芸術写真」とその時代』(筑摩書房)で日本写真協会年度賞受賞。『写真を愉しむ』(岩波新書)、『都市の視線 増補』(平凡社)、『眼から眼へ』(みすず書房)、『世界のキノコ切手』(プチグラパブリッシング)など著書多数。「キヤノン写真新世紀」などの公募展の審査員や、学校講師、写真展の企画など多方面で活躍している。

まとめ:加藤真貴子 (WINDY Co.)