文部科学省が「GIGAスクール構想」というのを進めているらしい。
本題の前に、我が国は「タイトル」の時点で国民に「ダメだ」と思わせるのが上手すぎるのではないか。
もはや逆に上手く行った時「GIGAスクールの癖にやるじゃないか」と評価にバフがかかるようにする高度な作戦にすら見えて来た。
私もPNからダメ感がでている方だが、未だかつて「カレー沢とは思えぬ獅子奮迅の働き」などとは言われたことがないので、この道は険しい。それよりGIGAスクール構想には正道を進んでもらいたい。
ちなみに今回は関係ないが、デジタル庁のHP内記事は、かつてフロントページエクスプレスで個人HPという古代遺跡を建立していた世代が懐かしさで死にそうなデザインをしていることがある。
見た瞬間、即死を免れても、クリックしたリンクが青から紫に変色した時点で死ぬので、これから見る人は気をつけてほしい。
ギガ学校とかふざけてるわけじゃなく日本ヤバい
GIGAスクール構想とは、簡単に言えば小中高の内に社会や世界に通用するITスキルを子供に身につけさせる教育をしよう、ということだ。
その一環として「全国の子ども一人につきパソコン1台と高速ネットワークを与える」というのがある。
一瞬、全国の家庭にテレビ、洗濯機、冷蔵庫をと言っていた時代に逆戻りした感がある。
しかし、最近の若者はスマホ、タブレットで全てを済ませ、ニンテンドーSwitchは子ども1人につき一台持っているが、パソコンは持っておらず、触った経験もろくにない、という話は聞いたことがある。
これを聞いた時は、今はスマホで全てのタスクを完了させるのがクールであり、パソコンなどというデカブツがないと何もできないのは老眼の証拠、もはや若にとってパソコンはポケベルやPHS、皿が回転する電子レンジと同列のアイテムなのだ……と思っていた。
だがこのように、若者に対し異様に卑屈になり、そちらが正しいと思いこむことこそが最大の老化なのである。
確かに、日常生活だけならスマホやタブレットで事足りる。私のように大容量デスクトップパソコンでXを見ている奴はローテクを越えて「何がお前をそこまで」という迫力が出てしまっている状態だ。
しかし「仕事」、何より「会社」は別である。
個人や家庭と会社では、行うタスクがまるで違うし扱うデータ量も違う。業種や職種によってはスマホやタブレットでは爆散するレベルの大容量データを扱う場合もある。
つまり現在でも会社ではパソコンが主力であり、パソコンを使わないということはない。そこに「パソコン使ったことないです」という若が入ってくるというのは問題なのだ。
パソコンを使ったことがないデジタルネイティブ?
よって、一昔前まで、パソコンを使えない老に手を焼いていた職場が、現在はパソコンが使えない若に老が一から教えるという逆転現象が起こっているらしい。
そこで果敢にも「先輩、PCなんて使わなくてもそんなのスマホですぐですよ」とスマホでエクセルデータを見せる若が現れたとしても、老眼のパイセンはその時点でムスカになる。
これからまた情勢が変わるかもしれないが、現時点では社会に出てパソコンが使えないというのは困ることなのだ。
先進国の中でもこれは異例のことで、もはや日本の子どもは「デジタルネイティブ」とは呼べないらしい。
そんなことはない、知人の子どもは5歳にして親のスマホのパスワードを解読していたぞと思うが、「デジタルネイティブ」とは生まれながらにして電子機器を接し扱える者、というわけではなく、それを駆使して業務や生産性のある行為ができることらしい。
スマホやタブレットでも出来ることは増えているが、会社で行うような作業や本格的にクリエイティブなことをしようと思ったらパソコンは不可欠になってくる。
そんなわけで圧倒的に低い日本の若年層のパソコン利用率はたびたび話題になっていたのだが、さらに最近では、先進国で唯一パソコン利用率が下がっている国として世界を驚かせたりしているそうだ。
それがない日本の子どもたちはYouTubeを見たり、ゲームをしたり「消費」の方ばかりに偏ってしまい、開発分野で諸外国に大きく後れを取っているそうだ。
確かに現在の日本でYouTubeは「子ども用シャブ」と言われるほど、止めない限り子どもの時間を無限に溶かす違法装置として、自主規制している家庭も多い。
YouTubeを見ることで知識を得ることもできるが、普通に陰謀論にハマったり、ひろゆきの真似のクオリティだけが上がる、ということもある。
「それ」をつかって「生産」するのか「消費」するのか
「ユーチューバーになりたい」と言い出す子どもは親の悩みの種という印象だったが、消費よりクリエイトする方に興味を持ったという意味ではむしろ喜ばしいことのようだ。
だが、これは消費するだけで生産することに興味が持てない無気力な日本の子どものせい、というわけではない。
社会でパソコンの使用がほぼ義務レベルなのに、パソコンの所持使用習得が義務になっていないからだ。
学校の授業内でパソコンに触らせるぐらいでは生ぬるい。それでパソコンをマスターできるなら、我々は全員英語の授業だけで英語が話せるようになっていないとおかしい。
よって、国が子ども1人につき一台パソコンを与え、真のデジタルネイティブを作り出そうとしている、ということだ。
確かに現在、子どもにパソコンを与えるかは、この可処分所得の減りまくっている日本で家庭の経済状況や親の方針に寄るところが大きく、これは「日本語を教えるかどうか家庭の判断に任す」レベルでまずいことで、新たな格差の温床にもなりかねないことなのだ。
だが、一方で、私のように学校でも日本語を使い、家庭でも日本語を使っていたはずなのに、何故か社会で通用する日本語コミュニケーションができずに、1日中パソコンでXをやっている人間もいる。
パソコンも与えればできるわけではない、ということだ。スマホとニンテンドーDSの区別がつかない老が議論をかき回してきたりもする。日本GIGA化計画にはさらなる国のサポートと世間の理解が必要である。