イワタの転機――復刻から新書体へ
1998年(平成10)の秋。写研を退職し、フリーランスとなった橋本和夫さんは、あるとき知人から「いま、どうしていますか?」と声をかけられた。
知人とは、もと写研の文字制作部責任者で、フォントメーカー・イワタに移籍し、営業の仕事をしていた宮崎徹氏だ。石井茂吉氏の没後、写研の文字制作部門の責任者は橋本さんが務めていたが、その後、美術大学で教鞭をとっていた宮崎氏が文字制作部長として赴任した。
「実はイワタで新しいゴシック体をつくりたいと考えているんですが、橋本さんに仮名の監修をしてもらえませんか?」
というのが、宮崎氏の話だった。
フォントメーカーのイワタは、1920年(大正9)に岩田百蔵(いわた・ひゃくぞう) が起こした岩田母型製造所をルーツにもつ。自社製の金属活字母型の製造、ならびに金属活字の鋳造販売からはじまった同社の書体は、活版印刷において多くの書籍や新聞にもちいられ、昭和の一時期には「書籍・新聞の活字の約65%を占める」ともいわれた。
写植の時代になると、岩田母型製造所の活字書体は写研が文字盤化し、発売した。この監修にも、橋本さんは携わっていた。
そしてデジタルフォント時代の到来も見えてきた1988年(昭和63)、岩田母型製造所の関連会社としてイワタエンジニアリングが設立された(後のイワタ。創設時の本社は山形県天童市)。同社ではまず、金属活字で保有していた自社書体……、明朝体やゴシック体といったスタンダードな書体をデジタルフォント化する作業を進めていた。
「宮崎さんがぼくに声をかけたのは、岩田母型製造所がもともと持っていた金属活字書体のデジタル化作業が落ち着いてきたからだったのかもしれません。基本書体の復刻にメドがつき、フォントメーカーとしてこれからは新しい書体をつくっていかなくては、と考えていたようです」(橋本さん)
しかし、イワタには当時、新しい書体を一からつくったことがある人がいなかった。そこで宮崎氏の脳裏に浮かんだのが、写研を退職してフリーランスになっていた橋本さんだったのだ。
「ぼくも字游工房の勘亭流の原字制作が終わって、特に仕事もなく過ごしていた時期でしたし、仮名の監修は写研でもずっとやっていましたから、不得手ではない。断る理由もないので、『いいよ』と引き受けることになりました」
時代の求める “新しいゴシック体”
この頃、時代の要請として、新しいゴシック体が求められていた。従来のゴシック体に比べてフトコロが広くて明るく、横組みにしたときに並びのよいゴシック体だ。このスタイルの代表的なものとしては、1985年に全12書体のファミリーがそろった写研の「ゴナ」や、1990~1994年にかけてファミリーをそろえていったモリサワの「新ゴ」が挙げられる。
1998年に橋本さんが監修の依頼を受けたイワタの「新ゴシック体」も、まさにこうした書体を目指していた。
「宮崎さんの依頼は、最初は『仮名の監修』ということでした。それで何度か、私の自宅近くの喫茶店でお会いして、宮崎さんが持ってこられた出力紙で仮名をチェックしたんですが、その場で赤字を入れながら『こう直してください』と伝えても、その次に持ってくる文字がほとんど直ってこない。なにが悪くて、どう直すよう指示されているのか、当時のスタッフにはわからなかったようでした。『このままこうやって進めていて、大丈夫かね?』と何度も話していたんです」
このままでは進みそうにない。宮崎氏から「橋本さん、一度イワタに来てもらえないか」と頼まれ、橋本さんはイワタエンジニアリング(2001年にイワタに商号変更/以下、イワタ)の東京事務所を訪ねた。そのころにはイワタの本社は東京に移転していた(文字制作部門は創業地・山形県天童市をそのまま拠点としていた)。
「1998年9月のことでした。東大赤門の真ん前(文京区本郷)にあった事務所を訪ね、社長の水野さん(現社長 昭氏の父・弘一郎氏)や、山形のチーフをやっておられる伊藤みよ子さん、宮崎さんと打ち合わせをしたんです」
新しいゴシックは、日本リテラル社の「セイビ角ゴシック体」をベースにすること、ウエイトはBから制作し始めることは決まっていた。しかしそれを開始するにあたり、どういう手順で何をしていったらよいのか、イワタでは、本社スタッフも制作を担当する山形事業部も、だれにも見当がつかない状況だった。
「しかも、ベースになるゴシック体の原字を見せてもらったところ、仮名だけでなく漢字も含め、タイプフェイスというよりはレタリングデザインに近い文字でした」
レタリングの文字・タイプフェイスの文字
レタリングとタイプフェイスの文字は、一体どう違うのだろうか?
「タイプフェイスの文字=書体は、どんな文字の組み合わせでも違和感なく大きさや太さがそろっており、並びがよくなくてはなりません。1字1字の太さや形がバラバラでは、文章を組んだときに違和感が生まれます。見出しでも長い文章でも、どんなふうに使っても大丈夫というのがタイプフェイスの文字です」
「一方レタリングの文字は、タイトルなど、特定の文字群のために描かれるものです。まとまりとしてバランスがよければ、異なる文字間の大小や太さに特に神経をつかう必要はありません。でも、その文字で違う言葉を組んだら、違和感が生まれてしまう。それがダメということではありませんが、そのままタイプフェイスにしようというのはまずいだろう、というのがぼくの考えでした」
ベースに考えている書体をそのままデジタル化したのではタイプフェイスとして成り立たないこと、新しい書体を制作するには、デザインとしてどういうことに留意し、どのように進めたらよいのかということを橋本さんがその場で説明すると、山形事業部の伊藤氏から「このままでは、山形事業部のスタッフだけで制作することはできません。橋本さん、まず一度山形にいらして、書体の作り方をスタッフに教えていただけませんか?」と頼まれた。
イワタ山形事業部は、同社のフォント制作部だ。15人ぐらいのスタッフで金属活字書体のデジタルフォント化に取り組んでいたが、すべて地元の職業安定所を介して一般採用された女性オペレーターで、書体デザインに関しては素人の集まりだったのだ。
1998年11月、橋本さんは山形事業部を訪れ、スタッフたちに向けて、新書体制作のレクチャーを行なうことになった。
(つづく)
話し手 プロフィール
橋本和夫(はしもと・かずお)
書体設計士。イワタ顧問。1935年2月、大阪生まれ。1954年6月、活字製造販売会社・モトヤに入社。太佐源三氏のもと、ベントン彫刻機用の原字制作にたずさわる。1959年5月、写真植字機の大手メーカー・写研に入社。創業者・石井茂吉氏監修のもと、石井宋朝体の原字を制作。1963年に石井氏が亡くなった後は同社文字部のチーフとして、1990年代まで写研で制作発売されたほとんどすべての書体の監修にあたる。1995年8月、写研を退職。フリーランス期間を経て、1998年頃よりフォントメーカー・イワタにおいてデジタルフォントの書体監修・デザインにたずさわるようになり、同社顧問に。現在に至る。
著者 プロフィール
雪 朱里(ゆき・あかり)
ライター、編集者。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。
■諸事情により、連載の再開が告知よりも遅れてしまったことをお詫びいたします。
■本連載は隔週掲載です。次回は4月21日AM10時に掲載予定です。