写研での“戦中”
写研の創業者にして石井書体の制作者・石井茂吉氏の遺作であり、橋本さんが同社で手がけた最初の書体となった「石井宋朝体」。その最終的な完成は、1965年(昭和40)まで待たなくてはならなかった。他にもなすべき仕事が、橋本さんのもとに入ったからだ。
茂吉氏没後2年が過ぎ、橋本さんは写真植字機研究所(写研)文字盤部の制作係長――原字を描く部署のチーフとなっていた。入社当時の先輩たちはすでに引退し、あいだにはだれもいなかった。
ただ、橋本さんの入社後は、原字部門でも徐々に新卒採用がおこなわれるようになっていた。1969年(昭和44)前後に入社した鈴木勉氏(故人/後に鳥海修氏・片田啓一氏とともに字游工房を創設)もその1人だ。
唯一の上司だった石井茂吉氏がなくなり、後輩が入社して部下のようになった。橋本さんは30歳前後にして、原字制作部門の責任者になってしまったのだ。
「それからが、ぼくの写研での“戦中”みたいなものでした」
若かった橋本さんにとって、「責任者」の重圧がどれほどおおきかったのかが、「戦中」のひとことからうかがえる。
石井宋朝体の最後のまとめを進めなくてはならなかったが、一方で、さまざまな書体の原字をつくらなければならなくなった。
まず1963年(昭和38)頃に橋本さんが描いたのが「硬筆がな」の原字だった。東京書籍の1965年(昭和40)版の教科書用につくられた「かな書体」で、48mmサイズで原字がつくられた。石井書体や大漢和辞典用書体は17.55mm(字面15mm)原字を用いていたが、写研はここで初めて48mm原字を採用した。
「初期の写研で用いられていた17.55mmの原字は、組みの様子は見えにくいけれど、文字のかたちは見やすかった。しかしそれをどうして48mm原字にしたのかというと、ぼく以降、デザイン専門学校や大学などを卒業した新入社員が入ってくるようになったからです。彼らはデザインを勉強してきているひとたちで、17.55mmのような小さな原字では扱えなかった。それで原字サイズを大きくすることにしました」
「まず、金属活字で用いていたベントン彫刻機パターン用の2インチ(約50.8mm)に近いサイズがよいと思いました。そうすると50mmが一番キリがよさそうなのですが、3ケタ数字の原字などがあることを考えると、2でも3でも割り切れるサイズが便利だと思ったので、48mmに決めました。以降の写研の原字は48mmで描かれています」
橋本さんが石井宋朝体で担当したのは漢字が中心で、かなの原字は描いても石井茂吉氏に全面的に修整されていたため、硬筆がなは、橋本さんがはじめて手がけた「かな」といえた。
「かなを描くのははじめてで、自信があったわけでもなく、なんとなくこんなもんだろうというふうに描きました。ただ、ぼくは書道をやっていたので、かなはわりあい書いたことがあったんです。しかも教科書体というのは、明朝体とは異なり、書き文字風です。明朝体の場合は読むか見るだけですが、教科書体は、“読むことも見ることも、書くこともできる文字”でなければいけない。ノートに明朝体で書くということはふつうないけれど、教科書体には“書く”という要素が入らないと意味がない。そういうことから考えると、教科書体のかなというのは、はじめて手がけるかなとしてはなじみやすかった。それは、かなの書を教わった宮本竹逕(ちくけい)先生のおかげだと思います」
当時、教科書会社では書家が顧問をしていることが多かった。 「東京書籍では、飯島春敬(しゅんけい)先生が顧問をしておられました。ぼくの描いた原字を飯島先生に校閲していただいて、制作を進めました」
硬筆がなは好評で、のちに橋本さんは、教育出版と光村図書出版の教科書体も手がけることになる。とくに光村図書では漢字もふくめた教科書体を制作した。
「漢字まで思い切って既存書体から切り替えられる会社はそうはなかったんですが、光村図書出版は漢字までふくめて完全に硬筆風の教科書体にした。ベースは写研の教科書体なのですが、起筆の打ち込みもすべてなくしたんです。それが国語の教科書に使われて、好評でね。国語といえば光村の教科書、となった。のちに『光村図書出版の教科書体はなかなか超えられない』といわれました」
教えることは学ぶこと
原字部門の責任者となった橋本さんの仕事は、自身が原字を書くだけでなく、「監修」が増えていった。教科書があるようでない文字制作において、コンセプトにあった書体に仕上げるために、後輩の描いた原字をチェックして、赤字を入れていく仕事だ。まだ文字専門の経験の浅い30代だった橋本さんにとって、役目とはいえ、それはとてもたいへんなことだった。
「自分が学んでいなくては、ひとに教えることはできません。『教えることは学ぶこと』とは、むかしのひとはいいことを言ったと思います。『この書体はこういうコンセプトで、デザインではここがポイントだ』と伝えようと思ったら、自分がきちんと理解していなくてはむずかしい。ぼくのときは『見て覚えなさい』という時代だったけれど、それでは伝わらない時代になっていました。赤字の理由を言葉で説明して理解してもらう、それも、理解だけではダメで、修整の結果が伴うことが大切です。それでも、ぼくはそこまで親切に教えられなかったんじゃないかと思います」
しかし、のちに写研に入社し、橋本さんに私淑した鳥海修氏(*1/書体設計士/字游工房代表)は、「橋本さんはちゃんと教えてくれましたよ」と語る。
「橋本さんからは『石井先生には、見て覚えなさいと言われた』と聞いていましたが、橋本さんご自身は『ここはこうやって書くでしょう』と言葉で教えてくれました。ぼくはそのことをずっと覚えていたから、いま自分が若いひとたちに教えるときも、できるだけ具体的に伝えようと思っているんです」(鳥海修氏)(*2)
“ペラもの”から“ページもの”へ
このころ――1960年代、写植のハード面、すなわち写植機に大きな変化が起きていた。それまで写植はチラシや名刺、広告などペラものの印刷物に用いられることが多かった。しかし1963年(昭和38)10月に本文用小型写植機「スピカ」が発表され、雑誌や書籍などのページものの本文が、活版印刷から、写植による組版とオフセット印刷の組み合わせに移行しはじめたのだ。
ページものの本文に用いられるとなると、それまで活字で使っていた書体を写植でも使いたいという要望が顧客から寄せられるようになった。そこで写研は、活字メーカーとの提携をすすめ、1962年(昭和37)に晃文堂明朝、1964年(昭和39)1月にモトヤ明朝とモトヤゴシック、1968年(昭和43)には岩田細明朝と岩田太ゴシックを文字盤化し、次々と発売していった。
「スピカでは、メインプレートと呼ばれる大きな文字盤を採用しました。メインプレートは、原字を一度34mmにまで拡大して、そこから文字盤をつくる。しかし初期の17.55mm原字の文字盤は、拡大すると画線のギザギザが見えたりして、文字品質がよくなかったんです」
このため、昭和30年代後半(1960年前後)から約10年は、既存の文字盤の「画質修正」という作業が重点的に行われた。拡大したときに文字が荒れないよう、48mm原字に書き直す作業だ。
「これが案外やっかいなもので、良くしたつもりが、書体の趣が変わり、改悪に見える場合もありました」
また、写植では活版に比べ、組版したときの文字がぱらついて見えたことから、漢字に対するかなの比率を大きくする“大がな”の制作が行われた。
(つづく)
(注) *1:鳥海修(とりのうみ・おさむ)書体設計士、字游工房代表。1955年、山形県生まれ。多摩美術大学グラフィックデザイン科卒業。1979年、写研入社。1989年、鈴木勉氏、片田啓一氏と3人で字游工房を設立。現在、同社代表取締役。大日本スクリーン製造(現SCREENグラフィックソリューションズ)のヒラギノシリーズ、こぶりなゴシックなどを委託制作。一方で、自社ブランド・游書体ライブラリーの游明朝体、游ゴシック体など、ベーシック書体を中心に100書体以上の書体開発に携わる。2002年、第1回佐藤敬之輔顕彰。2005年、ヒラギノシリーズでグッドデザイン賞、 2008年、東京TDCタイプデザイン賞を受賞。京都精華大学特任教授。
*2:鳥海修氏は現在、京都精華大学や、自ら立ち上げた私塾「文字塾」で、書体デザイナーの教育活動をおこなっている。「橋本さんに教わった」という思いが、これらの活動につながっている。
話し手 プロフィール
橋本和夫(はしもと・かずお)
書体設計士。イワタ顧問。1935年2月、大阪生まれ。1954年6月、活字製造販売会社・モトヤに入社。太佐源三氏のもと、ベントン彫刻機用の原字制作にたずさわる。1959年5月、写真植字機の大手メーカー・写研に入社。創業者・石井茂吉氏監修のもと、石井宋朝体の原字を制作。1963年に石井氏が亡くなった後は同社文字部のチーフとして、1990年代まで写研で制作発売されたほとんどすべての書体の監修にあたる。1995年8月、写研を退職。フリーランス期間を経て、1998年頃よりフォントメーカー・イワタにおいてデジタルフォントの書体監修・デザインにたずさわるようになり、同社顧問に。現在に至る。
著者 プロフィール
雪 朱里(ゆき・あかり)
ライター、編集者。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。
■本連載は隔週掲載です。