活字書体のリデザイン

1963年(昭和38)に発表された本文用小型写植機「スピカ」は、書籍や雑誌などのいわゆる“ページもの”の本文組版のためにつくられた機械だった。

一方1965年(昭和40)には、高速印字が可能な全自動写植機「サプトン-N」が発表された。毎分300字のスピードで印字できる機械だ。まずは社会党で機関紙発行のために採用され、その後、日刊紙に使用するため朝日新聞社と佐賀新聞社に導入された。サプトンは、これまでの写植機と異なり文字盤が円盤状になっていて、それが高速回転してはシャッターの位置に文字を合わせて、印画紙に印字していく。円盤が回転するという機構から、従来の写植機に比べて細い線がかすれたり、印字されなかったりしやすい性質があった。

  • 全自動写植機「サプトン-A 7261」(同パンフレットより)

「サプトンが導入されて高速印字が可能になりましたが、その一方で文字品質へのクレームが多数寄せられました。従来の文字盤をそのまま使用したのでは、明朝体の細い横線などがかすれてしまったんです」

とくに活版印刷で用いられていた活字書体は、写植でそのまま用いるのはむずかしかった。

「活版印刷は、活字組版を紙に押しつけたときに表面のインキが押し出されて周囲にインキたまり(マージナルゾーン)ができ、原字よりも文字が太って印刷される特徴があります。一方の写植では、写真的に製版をするため、原字がそのまま印字される。むしろ、露光状態によっては細まることもあります。なのに活字書体の原字をそのまま文字盤化してしまったので、細くなりすぎた。サプトンではさらにそれが強調されてしまったんですね」

そこで行われたのが、活字書体のリデザインだ。

「活版印刷で地方新聞や書籍に広く用いられていた岩田母型製造所の書体(現イワタ/*1)は、写植でも使いたいという要望が高かったので、サプトンでも使えるように文字盤を制作しました。明朝体や新聞明朝は横線をもとの原字より太くする一方、線の交差する部分は黒みがたまらないように線を食いこませるなどのデザイン調整をしました」

「写植機というハードが進化しても、それだけでは美しい出力結果は得られません。品質の高い文字印刷を写植で行うために、原字をいかに写植出力に適したデザインにするかということが重要でした。“文字をいかにハードにのせるか”ということに、えらく苦労した時代でしたね」

  • 写研の「岩田細明朝体」

  • 写研の「岩田新聞明朝体」

文字と媒体

そもそも昭和初期~35年前後(1960年ごろ)までに石井茂吉氏がつくりあげた石井明朝、石井ゴシックなどの石井書体は、それまでの活版印刷用書体と異なり、“写植機で美しい出力物を得るために”開発された書体だった。

  • 石井中明朝体(MM-OKL)

  • 石井中ゴシック体(MG-AKL)

「石井書体は、筆書きの線質を活かした上品で優美な書体で、ふところが狭く手足が長い。起筆をしっかり入れていたのも特徴でした。版を紙に押しつけて印刷する活版印刷に比べ、写植では文字盤を露光して印字する過程で、線の先端部分が弱くなってしまう特徴がある。それを避けるために起筆がつけられたんです。この起筆や、筆書きを思わせるやわらかな線は、ベントン彫刻機で母型を彫刻する金属活字では表現のむずかしいものでした」

森澤信夫氏と一緒に邦文写植機を開発したとき、石井茂吉氏は最初、活版印刷でよく用いられていた築地書体の12ポイント活字の清刷りを4倍の大きさに拡大し、墨入れして原字を書いた。

しかし文字盤にして写植で印字してみると、線の太さや文字の大きさのふぞろいが目立った。そこで試作を経てつくりあげたのが、石井中明朝体(かなはオールドスタイルの小がな)だった。写植機を導入した印刷会社から指摘された書体の欠点を検討し、写植用として最適な書体をと考えて石井茂吉氏自ら制作したものだ。

〈築地一二ポの文字の骨格は生かしながらも、文字の縦線、横線の比率をまず問題にした。築地の一二ポイント書体は、築地の他の大きさの活字と比べれば洗練されている書体ではあるが、縦と横の線の比率が大きく、つまり縦の線は太く、横の線は細かった。築地を模した写真植字の明朝も、縦の線は太く横の線が細かった。そうなると、写真処理の際、どうしても横の線がとびやすくなる。そのため、横線を太くし、起筆部に打ち込みを加え、力強さを出そうとした。横の線をやや太くしたので、そのままだと文字全体の黒みが強くなり、つぶれやすいので、縦線を細めた。それだけでなく、毛筆の起筆、終筆の感じを加えた。縦と横の太さが築地にくらべると小さくなり、スマートで洗練された書体となった。〉(*2)

こうして、「写植という機械でいちばん美しい文字印刷ができるように」と生まれたのが石井書体だった。しかし写植機のハードがさらに全自動機に進化した結果、あたらしい機械の特徴に対応した書体デザインが再び必要となったのだ。

「ただ、石井書体というのは石井先生がつくられた文化財のような書体なので、これに手を入れるなんていうことはとてもできません。そこで、サプトンに対応する本文書体が必要とされるようになったんです」

サプトンはその後、朝日新聞や毎日新聞にも導入されていた。新聞以外の一般的な印刷用として、出版社ダイヤモンド社にサプトン-Pが納入されたのは、1969年(昭和44)8月のことだった。ダイヤモンド社は、サプトンの導入を機に、自社の雑誌を縦組みから横組みに変更することにした。

「そのためにつくられたのが、1970年(昭和45)に発売した『本文用横組かな』です。横組みに合うように文字のふところ(*3)を広くし、横のラインがそろうようにつくりました」

原字を書いたのは橋本さんだ。

本文用横組かなは、サプトンに適した書体として写研が初めてデザインしたものだった。(つづく)

(注) *1:岩田母型の本文用書体「岩田明朝体」は、活版印刷の時代、書籍の約70%で使われていたともいわれるほど、多く用いられている書体だった

*2:『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』(「文字に生きる」編纂委員会/1975年)より

*3:ふところ:文字のなかの線に囲まれた空間のこと

話し手 プロフィール

橋本和夫(はしもと・かずお)
書体設計士。イワタ顧問。1935年2月、大阪生まれ。1954年6月、活字製造販売会社・モトヤに入社。太佐源三氏のもと、ベントン彫刻機用の原字制作にたずさわる。1959年5月、写真植字機の大手メーカー・写研に入社。創業者・石井茂吉氏監修のもと、石井宋朝体の原字を制作。1963年に石井氏が亡くなった後は同社文字部のチーフとして、1990年代まで写研で制作発売されたほとんどすべての書体の監修にあたる。1995年8月、写研を退職。フリーランス期間を経て、1998年頃よりフォントメーカー・イワタにおいてデジタルフォントの書体監修・デザインにたずさわるようになり、同社顧問に。現在に至る。

著者 プロフィール

雪 朱里(ゆき・あかり)
ライター、編集者。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

■本連載は隔週掲載です。