乗鞍観測所での研究と成果
そもそも、なぜ70年前に、宇宙線の研究が必要とされたのだろうか。
1936年、宇宙線の観測から電子と陽子の中間の質量を持つ新粒子が発見され、のちにミューオン(ミュー粒子)として知られるようになったように、かつては新しい粒子を発見したり研究したりするのに、宇宙からやってくる高エネルギーの粒子、すなわち宇宙線の観測が役立っていた。
とき同じくして、世界各国では加速器の研究が始まっていた。いつ、どこから、どれくらいのエネルギーでやってくるかわからない宇宙線より、それらを自由に制御して放射線をつくれる加速器のほうが、研究にとって優れているのはいうまでもない。日本でも戦前から、日本の現代物理学の父と称される仁科芳雄氏らが加速器の研究、開発を進めていた。
しかし戦後、GHQは日本国内にあった加速器を破壊・廃棄し、加速器を用いた実験物理の研究を禁止した。そこで日本の研究者たちは、宇宙線を使って素粒子を研究する道に活路を見出した。
この当時を振り返り、1963年には当時の野中到・同観測所所長が、「宇宙は天与の加速器であって、天空の彼方から宇宙線として高エネルギー粒子が貧富の差なく地上に降り注いでくるので、測定装置さえ用意すればあまり金をかけずに素粒子研究ができる。これが本観測所設立の出発点であったと思う」と記している。
観測所ができた1953年といえば、サンフランシスコ平和条約が結ばれた翌年にあたり、日本はまだ復興の道半ばだった。米国やソ連などに遅れを取り、資金も設備もあらゆるものが満足ではない中でも、多くの若い研究者がこの地に集まり、大いに活気づいていたという。
こうした背景から、観測所にはまず、大阪市立大学が世界に先駆けて開発した「高圧水素霧箱」が設置された。当時、高エネルギー宇宙線と原子核との反応による粒子の多重発生が、核子同士の一回の衝突で起こるのか、それとも原子核内の核子との何回かの衝突によって起こるのかが大きな議論の的となっていた。そしてこの高圧水素霧箱は、核子同士の一回の衝突でも粒子の多重発生が起こることを世界で初めて示した。
しかし、観測所の完成とちょうど同じ1953年、米国のブルックヘブン国立研究所で「コスモトロン」と呼ばれる加速器が稼働を始めた。1944年から1952年にかけて、加速器の基本的な原理が次々と生み出され、粒子を加速するエネルギーが飛躍的にあがり、実用的なものになった。そしてこれ以降、新粒子の研究は本格的に加速器が担うことになった。不運なことに、観測所が完成したのは時代が移り変わるタイミングだったのである。
しかし、それで観測所の意義が失われたわけではなかった。宇宙線を使った素粒子の研究から、宇宙線そのものの研究へと主軸が移ったのである。
たとえば、空気シャワー(高いエネルギーの宇宙線が地球の大気に入ってきたとき、空気の分子と衝突して大量の粒子を作り出し、その粒子がさらに衝突を繰り返し、地上に大量の粒子が降り注ぐ現象)の研究の基礎が作られたほか、大型の「エマルション・チェンバー」という装置を使って高エネルギーの宇宙線を検出し、大気中でのジェット現象(陽子、中性子、中間子などと原子核とが衝突して多重発生した中間子が前方に集中して放出される現象)を数多く観測した。この装置はのちに、富士山やボリビアのチャカルタヤ山などで行われた大規模なエマルション・チェンバー実験の基礎にもなった。
このほかにも、銀河系、太陽惑星間空間における宇宙線変動と磁場や太陽活動との関係を調べる研究や、中性子モニターによる中性子強度の測定により、その世界分布の観測の一翼も担った。
そして1988年には、太陽活動が非常に活発な時期だったこともあり、太陽フレアにともなう宇宙線強度の異常増加を30年ぶりに観測した。その後、より大型の観測装置が導入され、1991年には太陽からの数百MeVの中性子を各々独立に観測した。これは、この9年前のスイス・ユングフラウでの観測に続いて史上2番目であり、フレアに伴う粒子の瞬時加速についての貴重なデータとなっている。
また2004年には、雷電場計と粒子検出装置を使った観測から、雷雲中で二次宇宙線(宇宙空間から地球の大気圏へ入ってきた宇宙線(一次宇宙線)が、大気中の窒素や酸素の原子核と衝突して生成する二次粒子)のミューオンが加速する現象と解釈できる証拠が得られた。さらに、2008年から2010年にかけて、さまざまな観測機器を使った観測から、雷雲中で加速されたMeV領域ガンマ線と電子の長時間(数秒から数分)バーストを世界で初めて同時観測した。こうした研究から、宇宙線と雷雲の相互作用によって、電場による電子の相対論的加速と雪崩増幅が発生し雷雲ガンマ線(gamma-ray glow)が発生することがわかってきている。
また、かつては未発見だった素粒子のクォークの探索実験をはじめ、短期間の実験や装置のテスト実験も頻繁に行われた。
乗鞍観測所のいまとこれから
乗鞍観測所は設立から70年が経ち、これまでに多数の研究者を育て、現在に至る日本の宇宙線研究の発展の基盤を築くという大きな役割を果たしてきた。小柴昌俊氏、梶田隆章氏がノーベル物理学賞を受賞したことは、その代表例といえよう。
一方で、乗鞍観測所の位置づけや役割は変わってきている。
前述のように、新たな素粒子の研究などは加速器が担うようになり、宇宙からやってくる宇宙線や素粒子の研究も、ニュートリノや重力波といった新たな研究対象が生まれた。東京大学宇宙線研究所も、ニュートリノを観測する「カミオカンデ」や「スーパーカミオカンデ」、重力波を観測する「大型低温重力波望遠鏡(KAGRA)」といった、より新しく、大きく、高度な施設が主役を務めるようになった。最高エネルギー宇宙線の探索を行う「テレスコープ・アレイ実験」のような、海外拠点での観測や研究も活発になっている。
第一線からは退いたものの、乗鞍観測所はいまなお運用が続けられている。最近では、高い標高にあること、人工汚染が少ない環境であることといった“地の利”を生かして、宇宙線に限らず多様な分野の研究者によって多目的な利用、研究が増えている。
たとえば、高山でのエアロゾルを採取して、その大気圏での輸送機構や大気汚染・雲発生などの影響を調べる実験や、温暖化・酸性雨などが高山の植生に及ぼす影響の調査、大気中のオゾン・紫外線の測定、雷鳥の雛のケージ飼育など、地球環境に関する研究が盛んになっている。
また、宇宙線に関連した研究も途絶えたわけではなく、2次宇宙線中性子強度の高度依存性測定、宇宙線観測用望遠鏡の性能試験など、高い標高や暗い夜間を利用した試験観測など、高い標高や暗い夜間を利用した試験観測が行われている。
こうした研究を通じて、若手研究者の育成にも役立ち続けている。
乗鞍観測所の所長を務める、東京大学宇宙線研究所の﨏隆志(さこ・たかし)氏は「私が宇宙線の研究を始めた30年前、学生のユーザーとして乗鞍観測所を利用しました。その時点ですでに40年が経っており、名前しか聞いたことのないような先輩方もここに来て、いろんな苦労があってこの観測所ができ、維持、運用され、この70年間大きな事故もなく運用されてきました。先人の苦労に感謝したいです」と述べた。
また、「宇宙線研究の主要な研究はほかに移りましたが、いまなおいろんな大学などがさまざまな観測や実験をやっています。これからも人を育てる場所として役立てていきたいと思っています」と続けた。
70年を経て、いまなお活躍する乗鞍観測所だが、観測所の老朽化が進み、設備・建物や道路などの維持管理にも費用・手間がかかるようになったという。
﨏所長は「激動の時代を乗り越えて、新しい時代に相応しい乗鞍観測所を真剣に考える時期に来ていることにも異論はないでしょう」と語った。
参考文献
・Norikura Observatory
・東京大学宇宙線観測所10周年記念
・乗鞍観測所60周年記念
・東京大学学術機関リポジトリ 東京大学百年史 部局史四
・日本の加速器科学と高エネルギー加速器研究機構: KEKの歴史