ハーバード・スミソニアン天体物理学センター、ハーバード大学、香港科技大学らの研究チームは、宇宙マイクロ波背景放射(CMB:cosmic microwave background)や宇宙の大規模構造に関する天文観測データを、素粒子物理学の研究に利用する方法論を提唱している。研究論文は、物理学専門誌「Physical Review Letters」に掲載された。

インフレーション期に生じた素粒子の性質が、現在観測できる宇宙の大規模構造に刻み込まれている(出所:ハーバード大学)

今回の研究では、宇宙の始まりを説明する有力仮説として「インフレーション理論」を前提とした議論を進めている。

宇宙は約138億年前、超高温超高密度の火の玉が爆発的に膨張するビッグバンによって始まり、やがて温度が冷えて、星や銀河などが生まれ、現在の姿になっていったと考えられている。それでは、この最初の火の玉状態の宇宙は、そもそもどうやって出来てきたのだろうか。これを説明する理論がインフレーション理論である。

宇宙開始から経過した時間をtで表すと、t=0の瞬間を説明できる理論はいまのところない。しかし、t=0直後の極めて短い時間のあいだに何が起こったかについては、いろいろな検討が行われている。この中で、宇宙誕生からt=10-36~10-34という超短時間に宇宙が指数関数的な急膨張を遂げたと考えるのがインフレーション理論である。1981年に東京大学の佐藤勝彦氏が発表した。インフレーション理論の立場からは、実際の観測データで得られているその後の宇宙の姿をかなり合理的に説明できるため、広く支持されるようになっている。

インフレーションによる宇宙膨張は超高エネルギーの事象であり、宇宙に存在するすべての素粒子がこの時期に作られ、高エネルギー状態で粒子同士が衝突し、相互作用によって新しい粒子が生まれるという過程が次々と起こったと考えられる。

したがって、インフレーション期の宇宙で起こったことは、素粒子研究のために現在使われている粒子衝突型加速器(コライダー)でやっていることと基本的には同じであるといえる。このため研究チームは、インフレーション期の宇宙を「宇宙コライダー」と呼ぶ。ただし、地上に建設された加速器と比べると、宇宙コライダーで扱うエネルギーは100億倍以上高いという違いがある。

宇宙コライダーが生み出した結果は、初期宇宙の微視的構造に関する統計データに変換される。その後の時間経過の中で、微視的構造に関する統計データは、CMBや宇宙の大規模構造の空間的分布に関する統計データの中に刻み込まれていくと考えられる。このため、地上の加速器では決して実現できない超高エネルギー状態の宇宙コライダー内で起こる未知の物理について、CMBなどの宇宙観測データを利用することによって貴重な情報を得ることができると研究チームは主張する。

通常の加速器を使って未知の物理現象を探る場合、まずは加速器内における既知の粒子が生成するバックグランド信号について正しく理解しておくことが非常に重要である。宇宙コライダーについても、これとまったく同じことがあてはまると研究チームは指摘する。

この場合、バックグランド信号を生成する既知の物理現象は、素粒子理論の標準模型によって与えられる。標準模型によるバックグランド信号を慎重に研究しておくことが、宇宙コライダーを利用して未知の物理を探る際の前提条件になるわけで、逆にこのバックグランド信号から逸脱するような信号が観測されれば、それは標準模型を超えた未知の物理のしるしであるといえる。

今回の研究では、このような動機から、標準模型によるバックグランド信号を決定する試みとして、インフレーションのモデルの違いによって、標準模型における粒子の質量スペクトル(質量の異なる基本粒子の相対的な存在比率)にどのような違いが生じるかが検討されている。

具体的には、インフレーション中のヒッグス場の真空期待値(VEV:vacuum expectation value)について、VEVが通常のヒッグス場と同じく246GeV(ギガ電子ボルト)程度の場合、VEVがゼロの場合、プランク質量にほぼ等しい巨大なVEV(1018GeVオーダー)を持つ場合という3つの場合に分けて考察している。

このうちVEVが通常と同じ246GeV程度の場合は、インフレーション中の宇宙コライダーのエネルギーが地上の加速器よりも低くなってしまうのであまり検討する意味がなく、宇宙コライダーではVEVがゼロまたは巨大な値を取る場合が主な研究対象になるとしている。論文では、VEV=0としたときのヒッグス質量の条件をさらにいくつかの場合に分けたりして、それぞれの条件下で素粒子の標準模型の質量スペクトルがどのように変化するかを検証している。

このような手法での研究はまだ始まったばかりだが、宇宙観測の精度向上が進むにつれて、宇宙コライダーについてもより詳細な情報を得られるようになると期待できる。これによって、素粒子物理や初期宇宙の状態についての研究が進むだけでなく、宇宙のインフレーション膨張そのものについての理解も進むだろうと研究チームはコメントしている。

実際、巨大加速器の建設による素粒子研究には物理的・経済的な制約があり、より高エネルギー状態を必要とする未知の物理現象の探索は、次第に困難になっていくことが予想される。このため今後は、従来型の巨大加速器以外の手段で得られるデータを素粒子研究に活用していく方法が重要性を増していくのではないかと考えられる。