マックス・プランク研究所とバスク大学の研究チームは、ナノスケールのデバイス内での熱の移動や電流を量子力学的な観測行為によって制御できることを実証したと発表した。熱は高温側から低温側に向かって流れるとする熱力学の第二法則に一見反するような仕方で、低温側から高温側に向かって熱を流すといった制御も可能であるという。論文は、Nature提携のオープンアクセス誌「Quantum Materials」に掲載された。

量子ラチェット。量子観測行為による熱・電流制御の概念を検証するためのデバイスである(Quantum Materials掲載論文から引用 DOI:10.1038/s41535-017-0043-6)

熱力学の第二法則(エントロピー増大の法則)によれば、熱は高温側から低温側に流れるとされ、逆に低温側から高温側に熱が自然に移動するということは起こらない。これは高温物体と低温物体を接触させた系を長時間放置するとどうなるかを考えれば経験的にわかる。低温物体の温度は上がって、高温物体の温度は下がり、2つの物体を合わせた系全体が一様な温度の平衡状態に落ち着く(エントロピーが極大化した状態である)。低温物体から高温物体へと熱が逆向きに移動し、低温物体がより低温に、高温物体がより高温になるといった現象は、ひとりでには起こらない。

今回の研究で、ナノスケールのデバイスで低温側から高温側へ熱移動を制御できることが示されたといっても、やはり実際に熱力学の第二法則が破られたわけではない。

実は日常的なマクロな系であっても、熱を低温側から高温側に移動させ、低温側をさらに冷やすといった操作自体は可能である。それは要するに冷蔵庫やエアコンである。ただし、その操作をするには系に対して外部から仕事をする必要がある。冷蔵庫やエアコンならその仕事のために電力を消費する。

一方、ナノスケールのデバイスでは、普通の意味での物理的な仕事をしなくても、系を観測するだけで仕事をしたのと同じような効果を得られる可能性があることがわかってきた。量子力学的なレベルでは、観測行為自体にもエネルギーやエントロピーがあるためである。

量子力学では観測行為自体が系の状態に影響を及ぼすことが知られている。たとえばスピンの向きが上か下かといった粒子の性質を考えると、ひとつの粒子の中で上向きのスピンと下向きのスピンが重なって存在する「量子重ね合わせ」の状態を実現することができる。重ね合わされた状態は互いに干渉しあっているが、観測者が粒子の状態を観測することによってこの干渉は失われ、状態がひとつに確定する。

上の例では観測行為によって系の状態の量子性が壊されてしまっているが、観測行為を局所限定して上手く利用すると、量子干渉を壊さずに連続的に変化させることができ、熱や電流の制御に使えるというのが今回の研究である。

研究チームは、記事冒頭の図のような量子ラチェットと呼ばれるデバイスを設定し、局所的な観測がそこでの熱や電流の動きにどのように影響するかを考察している。図の左側の赤い部分が高温熱浴、青い部分が低温熱浴を表しており、熱浴に接するようにそれぞれ9個の原子が置かれている。この2つの領域をそれぞれ原子5個からなる2本の導線で連絡する。

論文によると、上側の導線中の高温熱浴に近い位置にある原子αだけを局所的に観測した場合と、低温熱浴に近い位置にある原子βだけを局所的に観測した場合では、熱や電流の動きに違いが出る。原子αを観測しているとき、熱は通常通り高温側から低温側に向かって流れるが、原子βを観測しているときには熱が低温側から高温側に向かって移動する現象が起こるという。また、デバイスの電位勾配から、通常であれば導線中には時計回りの環電流が生じるはずで、原子αを観測しているときには実際そうなるが、原子βを観測しているときには反時計回りの環電流が生じることも指摘されている。

下の騙し絵のイラストは、マックス・プランク研究所のニュースリリースに掲載されていたもので、このデバイスの概念を比喩的に表現したものである。水路の絵の左半分を手で隠して右側だけを見ると、水は水路を流れ下っているように見えるが、手をどかして絵全体を眺めると水の流れる方向はさっきとは逆に見える。このように観測する位置を変えることで、同じ絵の中に違う方向の流れが見えてくるという例を使って、重ね合わせ状態間の量子干渉の調整を説明しているのだが、この説明は騙し絵だけあって何か本当に騙されているような気がするので、あまり深入りしないことにする。

研究概念を説明するための騙し絵。視点を変えると水の流れる方向が変わる(出所;マックス・プランク研究所)

とにかく観測行為自体が影響することによって熱や電流の方向が変わるのだと素直にとらえたほうがわかりやすいのではないかと思う。一見エントロピー増大の法則に反しているようだが、論文を読むと、観測者自身がもっているエントロピーまで系に含めて計算した場合には、低温側から高温側に熱が流れてもエントロピーが実際に減少しているわけではないことが示されている。

近年、原子や電子、光子などを1粒子レベルで観測したりする操作したりできる技術が進んできた結果、このようにエントロピー増大の法則を一見破っているようにも見える「マクスウェルの悪魔」的なデバイスが現実のものになり始めている(関連記事)。今回提示されている量子ラチェットのようなデバイスも、グラフェンなどを使えば実際に作製可能であると考えられる。研究チームは「近い将来、今回の概念をスピン注入型メモリなどのデバイスに応用できるようになるだろう」とコメントしている。