物質・材料研究機構(NIMS)の研究員などで構成される研究チームは、フラストレート磁性体において、構造相転移に付随して現れる新しい物理現象「軌道スイッチング」を発見したことを発表した。

同成果は、NIMS超伝導物性ユニット 強相関物質探索グループの吉田紘行 博士研究員、同 磯部雅朗 グループリーダーおよび東京大学物性研究所の山浦淳一 助教、同 岡本佳比古 助教、同 ヨーラン・ニルセン 博士研究員、廣井善二 教授らによるもので、英国科学雑誌「Nature Communications」電子版にて公開された。

固体物理学として近年、「磁気フラストレーション」という概念が注目を集めるようになってきた。同概念は、例えば、三角形の頂点に電子のスピンが局在し、隣接するスピン間に反強磁性的な相互作用が働く場合、3つのうち2つが反平行になって安定になったとしても、残る1つはどちらとも反平行になれないため不安定となるといったもので、格子が持つ幾何学的条件によって磁気秩序状態が実現しえない不安定性を指す。

磁気フラストレーション効果は、カゴメ格子で顕著に表れ、数々の理論計算から、スピン1/2(電子1個分のスピン)を持つカゴメ格子の磁気基底状態は、スピン液体と呼ばれる強い量子揺らぎ状態であると予想されている。スピンの配列が系全体できちんと決まった通常の状態をスピンの固体と考えるのに対し、強いゆらぎによってスピン配列が決まらずフラフラした状態をスピンの液体として表現されるが、これまで、実験的には、スピン液体の存在を証明する明確な観測結果は得られていなかった。

スピン液体は、銅酸化物高温超伝導体の発現メカニズムとも関連している可能性があり、その存在の有無の実験的検証は、現在の固体物理学の重要な課題の1つとなっていることもあり、研究チームでは今回、スピン液体状態の探索を目的に、2次元カゴメ格子を有する銅鉱物の1つであるボルボサイト(Cu3V2O7(OH)2・2H2O)を用いて実験を行った。

これまで、多結晶試料を用いた物性研究も行われ、スピン液体らしき兆候が観測されていたが、より詳細な測定に必要な良質の単結晶試料の合成はできていなかったことから、今回、試料合成プロセスの改良を試み、ボルボサイトの人工結晶を作製することに成功した。

今回のボルボサイトの人工結晶は、水熱合成法によって作製された。具体的には、原料の混合溶液から直接水熱反応を行うことで、最大0.7 mm程度の大きさの単結晶を得たという。

図1 銅鉱物ボルボサイト(Cu3V2O7(OH)2・2H2O)の結晶構造。(a)が単結晶の実体顕微鏡写真、(b)がb軸方向から見た全体像、(c)がc軸方向から見たカゴメ格子層

図1のbおよびcは、これまで報告されていたボルボサイトの結晶構造で、銅(Cu)原子が、ab面内で2次元カゴメ格子を形成している。カゴメ格子面は、バナジウム(V)と酸素(O)で構成される多面体によってc軸方向に隔てられている。今回、単結晶X線回折を用いてボルボサイトの結晶構造を詳細に解析した結果、室温付近に、今まで知られていなかった新しい構造相転移が存在することが確認された。

ボルボサイトに含まれるCu2+イオンでは3d 軌道に9個の電子が入っている。この場合、銅イオンを中心とする八面体が大きく歪むことで、3z2-r2軌道かx2-y2軌道のどちらか一方がエネルギー的に安定に選択される(ヤーン・テラー効果)。

図2 銅鉱物ボルボサイト(Cu3V2O7(OH)2・2H2O)の軌道スイッチング。カゴメ格子上のCu1サイトにおいて、不対電子が入るd軌道は、相転移温度TS=310Kを境界にして、x2-y2(低温相:左)から3z2-r2(高温相:右)へと切り替わる。これは、一種の秩序・秩序転移であり、"軌道スイッチング"と名付けられた

今回の研究で得られた変わった構造相転移の特長は、Cu1サイトの八面体の歪みに見ることができ、相転移温度以上の高温相では、八面体の歪み方から、3z2-r2軌道が選択されている。その一方、相転移温度以下の低温相では、八面体が著しく変形し、x2-y2軌道が選択されているが、これは、有効な電子軌道が、構造相転移によって切り替わる不思議な現象だという。

こうした軌道の変化は、巨大磁気抵抗効果を示すマンガン酸化物などで良く知られている軌道秩序現象とは異なる現象である。軌道秩序は、軌道の秩序・無秩序転移として定義することができるが、今回観測された"軌道の切り替わり"は、ある軌道秩序状態から別の軌道秩序状態への相転移であるためで、従来の軌道秩序転移とは質的に異なるものとなっている。

研究チームでは、銅イオンの特徴は、ヤーン・テラー歪みによる安定化エネルギーが極めて大きいことであり、これにより、結晶が存在できる温度領域では、すでにヤーン・テラー歪みに起因する軌道秩序が起こっていると理解されるとしている。また、今回観測された現象のように、有限の温度で軌道変化を伴う相転移を示す銅酸化物は、これまでに他に例がないことから、研究チームでは、この現象を「軌道スイッチング」と命名。軌道スイッチングは、単結晶試料でのみ観測される現象で、それが生じる理由は現在のところ不明だが、恐らく、ボルボサイトにおいては、結晶水の整列が関与しているものと推察されるという。

さらに研究の結果、軌道スイッチングは、磁気フラストレーション系の磁気基底状態にも影響を及ぼすことが判明した。単結晶試料において、1K付近の極低温で比熱に2つのピークが観測されたためだ。多結晶試料では、こうした比熱のピークは観測されない。一方、単結晶の比熱のピークは、2段階で連続的に磁気転移が生じたものと考えられ、基底状態では、何らかの長距離秩序状態が安定化されていると考えられるという。これは、軌道スイッチングによって、磁気相互作用に変化が生じたために出現した磁気転移だと考えられ、これは磁気フラストレーション系の基底状態が、磁気相互作用の繊細なバランスによって安定化されるものであり、僅かな擾乱がそれを劇的に変化させることを示しているとする。

なお研究チームは、今後、軌道スイッチングによって誘起された極低温での連続2段転移の素性と、その磁気状態を明らかにすることが求められるとするほか、軌道スイッチングを上手く制御することで、スピン液体状態などの新しい熱力学相の誘起が可能になるかもしれないとしており、今回のような研究を進めていくことで、軌道スイッチングが磁気フラストレーション系の基底状態の理解と制御につながることが期待されるとしている。