2008年、茨城県東海村にある国立研究開発法人日本原子力研究開発機構(JAEA)東海の敷地内に、J-PARC(Japan Proton Accelerator Research Complex)が設立された。ここは世界最高クラスの陽子ビームを利用することで、中性子やミュオン、K中間子、ニュートリノなど、様々な粒子ビームを生成した実験を行う施設である。

このJ-PARCと、岐阜県飛騨市にあるスーパーカミオカンデが共同で行っているT2K実験が、2013年に世界で初めて電子型ニュートリノ出現現象を検出したことは記憶に新しいだろう。ニュートリノは現在、高エネルギー物理学において極めて注目度が高い領域であり、世界各国の研究者が日々、同分野の研究に力を注いでいる。裏をかえせば、ニュートリノ研究は各国の間で競争が激しい領域だと言える。

世界に先駆けて新たな発見を提示すべく、日本の研究所は今、どのような取り組みを進めているのか。本稿では、J-PARCをJAEAとともに共同運営する高エネルギー加速器研究機構(KEK)栗本佳典 博士のインタビューから、ニュートリノが内包する可能性とそこへの日本の取り組みを紹介していこう。

高エネルギー加速器研究機構 栗本佳典 博士

ニュートリノが持つ可能性。その研究のカギは「どれだけ多くの陽子を供給するか」

超新星からのニュートリノを観測した小柴昌俊氏(2002年)、「ニュートリノ振動」と呼ばれるニュートリノの種類の変化を確認してその質量の存在を証明した梶田隆章氏(2015年)など、ニュートリノの研究分野では2人の日本人がノーベル賞を受賞している。大規模な実験施設であるJ-PARCを保有する日本は、世界でも有数のニュートリノ研究国といえるだろう。

このニュートリノに関する研究は、我々にどのような新たな知見をもたらすのだろうか。栗本博士は、宇宙に存在する疑問の解明に向けた大きなヒントとなり得ると語る。

「2013年に電子型ニュートリノ出現現象を検出後、T2K実験ではこの現象について『粒子であるニュートリノと反粒子である反ニュートリノの違い』があるか否かを実験しており、現在90%の確率でそこに違いがあることが示されています。話が飛躍する印象をもたれるかもしれませんが、これは『宇宙の根源的な謎』を解明するうえで極めて重大な実験だといえます。宇宙の成り立ちであるビッグバンでは、粒子で構成される物質と反粒子で構成される反物質が同数生成されたと言われています。物質と反物質は合わさることで消滅するため、現在の宇宙に反物質がほとんど存在しない理由が説明できないのです。ニュートリノ研究で『CP対称性の破れ』と呼ばれる『物質と反物質間の性質の差異』を解き明かすことができれば、この理由が説明できるようになるかもしれません。」(栗本博士)

T2K実験では、ニュートリノにおける「CP対称性の破れ」を99.7%という有意水準の信頼度で検証すべく、現在、取得データ量の増大に取り組んでいる。栗本博士が携わるのが、この取得データ量を高めるための電源システムの開発である。

「いち早く新たな知見を得られるかどうかは、どれだけ多くの陽子を供給するかにかかっている」と栗本博士は語るが、そもそもニュートリノの取得データ量を増加するのになぜ電源システムの開発が必要なのか。その理由を説明するには、まずニュートリノ生成とその検出過程を整理せねばならない。

ニュートリノ生成とその検出の過程
1.リニアック 直線型加速器を用いて、負水素イオンを400MeV程まで加速
2.シンクロトロン 負水素イオンを陽子に変換し、1.を1周約350mのリングを用いて3GeVまで加速
3.メインリング 2.を1周約1570mのリングを用いて30GeVまで加速
4.ニュートリノ生成施設 30GeVまで加速した陽子をニュートリノへ変換
5.スーパーカミオカンデ 地下を通って、295km離れたスーパーカミオカンデで検出。ニュートリノ振動の有無を確認

上の表が、ニュートリノ生成とその検出過程の大まかな流れだ。ニュートリノの発生量を最大化する上で、J-PARCで増強が必要なのが、3.のメインリングである。メインリングは膨大な数の電磁石を円周状に並べて構成されている。この電磁石に電圧を掛けて電流を流すことにより磁場が発生、それによって陽子ビームを曲げたり収束させたりすることで、加速から供給までのビームの軌道を制御する。しかし、一度に供給する陽子量を増やせば増やすほど、陽子同士に働く発散力の影響で陽子ビームが太くなり、多くの陽子が加速器リング外にこぼれてしまう。効率よく陽子ビームを供給するには、時間あたりの陽子ビームの供給回数を増加することが求められるのだ。

「現在は2.48秒に1回、陽子ビームを供給しています。実験の国際競争力を維持するためには、これをほぼ倍の1.3秒毎の供給にすることが求められています。何が問題かというと、電磁石の制御を行う電源装置が1.3秒毎の陽子ビーム供給に耐えないことでした。陽子の到達エネルギーを落とさず、かつ供給頻度を上げるためには、これまでのおおよそ倍の電圧を掛ける必要があり、そのために新しい電源が必要となったのです。」(栗本博士)

メインリング増強計画の概要

これは、「電源の数を倍にすればいい」という単純な話ではない。上の図をもとに説明すると、陽子ビームの供給ではまず山のピークに向けて電力を送電網から取得し磁場を形成するが、その直後には磁場を一旦消すために送電網に対して電力を送り返す動きが求められる。現在の電源変動は60MW程度で、仮に電源を倍増させた場合は100MWを超えてしまう。これは電力会社が対応できる閾値を越えている。

そこで栗本博士が採用したのが、送電網と繋がる受返電設備と実際に電磁石へ電力を供給する回路との間に大容量のキャパシタを挟むという手法だ。電磁石から戻ってくるエネルギーを一旦このキャパシタで蓄え、それを次の電磁石への送電に使うという仕組みを構築すべく、新たな電源システムの開発に着手したのである。この電源システムの開発に際しては、KEK自らで開発する必要があったと、栗本博士は語る。

「新たな電源システムは要求レベルが高く、高精度の制御性能と最高水準の出力が求められています。仕様をメーカーに打診した際『難しい』と断られるケースも多く、引き受けていただける場合も所要コストが想定予算の倍以上に膨れ上がるため、すべてを外注する場合、この計画の実現は不可能でした。それであれば『自分たちで作ろう』と考え、加速器物理の学者でチームを立ち上げ、電源の設計を開始したのです」(栗本博士)

MATLAB/Simulinkが、電源設計の現場で活躍

KEKが試みたのは、高精度にビームを制御するコントローラを自らで設計、製品化し、電気回路のみメーカーへの協力を仰ぐというもの。電源回路の提供ならば大手メーカーだけでなく小規模のメーカーも入札に参加でき、想定予算内で実現する目処も立ったという。試行錯誤の結果、2016年には新たなコントローラを搭載した新電源の1号機を完成している。このコントローラの設計と製品化で大きな力を発揮したのが、MathWorksが提供するMATLAB/Simulinkだ。

栗本博士にとって、MATLAB/Simulinkの利用は今回が初めてだったという。同氏はMATLAB/Simulinkに注目した理由について、次のように説明する。

「開発当初はマイコンベースで開発を進めてきましたが、『アルゴリズムの開発→コーディング→テスト』という一連の作業に大きな労力を要していました。それでも、人海的に様々なアルゴリズムについて実装してはテスト……と繰り返していました。その最中、あるセミナーでMATLAB/Simulinkを目にする機会があったのですが、これであれば先の一連のシーケンスがまとめて実施可能でした。Simulinkと組み合わせれば、シミュレーションも含む『アルゴリズム設計→シミュレーション→コーディング→テスト』までが全てMATLAB上で実現できるのです。」(栗本博士)

セミナー後、栗本博士は早々に試用版で検証を実施。これまでMATLAB/Simulinkを触ったことが一切なかったものの、幾つかのサンプルプログラムやWeb上のドキュメントだけで使い方はほぼマスターできたという。検証の結果、同氏が求めていた用途に最適だという事が示され、正式導入を決定。こうして利用を開始したMATLAB/Simulinkは大きな威力を発揮する。

MATLAB/Simulinkで設計したコントローラが実装されている電源の制御装置

コントローラは「三相交流からキャパシタの直流電圧に変換するAC/DC部」、「キャパシタから電磁石へ電力を供給するチョッパ部」それぞれの電源制御を担う。MATLAB/Simulinkが用意する電源回路モデリングに適したオプションSimscape Power Systemsをフルに活用したことで、この設計作業はわずか2ヶ月で完了した。

「MATLAB/Simulink無しでは、少なくとも倍の期間がかかったしょう」と栗本博士は語るが、短期設計に貢献したのはSimscape Power Systemsだけではない。同じくMATLAB/SimulinkからHDLコードを生成するHDL Coderも効果的に機能したという。

第一号機として製品化されたコントローラはFPGAベースで実装されている。これは、制御すべきモジュールの数がかなり多いため、ピン数が限られるMCUに比べて1つのチップで多数のピンを利用できるFPGAの方が有利と考えられたからだ。

「もともと学生時代からHDLを書いていましたが、そうしたHDLに慣れたユーザーにとってHDL Coderは非常に使いやすいものでした。もしうまくいかずFPGAをやめてMCU制御に戻すという場合でも、HDL Coderの代わりにEmbedded Coderを利用すればターゲットMCU向けのCコードがすぐに生成できます。単に短期設計を実現するだけでなく、リカバリプランも支援されるというのは、MATLAB/Simulinkの大きな特徴だと考えています。」(栗本博士)

コントローラに使用したFPGA(左)。同コントローラーの設計はすべて、栗本博士のグループが担当した

ニュートリノ研究を加速するJ-PARC

競争が激化するニュートリノ研究。重複にはなるが、世界に先駆けてその成果を生み出すには、どれだけ多くの陽子を供給するかにかかっている。栗本博士は今回のプロジェクトについて、予算内で電源の刷新の目処が付き、さらにその一号機を導入できたことを高く評価する。

「昨今、研究機関に対する予算査定は厳しさを増しています。今回も『電源の刷新』という目的で割り当てられる予定の予算は限られていますが、その予算内で実現可能であることを、この一号機導入によってある程度示すことができたと言えます。さらにJ-PARCでは現在、二号機以降を導入するための建屋の建設も進んでいますし、実験の国際競争力を維持するためにも一刻も早く二号機以降を導入したいと考えています。」(栗本博士)

MATLAB/Simulinkを活用することで、予算制限と要求レベルの高さを両立させた電源の開発を短期間で行ったJ-PARC。この取り組みが今後、日本のニュートリノ研究をいっそう加速していくに違いない。

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