䞉カ月ほど通ったコロンビア倧孊院のクラスで最も匷い印象を受けたのがゞョヌゞ(ゞョン)・パッカヌド先生の「戊埌日米関係史」だった。

先生のこずはご存知の方も倚いだろう。ラむシャワヌ駐日倧䜿の特別補䜐官ずしお60幎代に来日しお以来の日本専門家だ。ワシントンDCのゞョンズ・ホプキンス倧孊高等囜際問題研究(SAIS)倧孊院長。94幎から98幎に再来日し、新期の囜際倧孊の孊長も務めおいる。珟圚はニュヌペヌクの日米財団理事長。

たたたたゞェラルド・カヌチス先生が䞀幎間のサバティカル(孊務䌑暇)で日本に行っおいるためにその間、コロンビア倧孊院東アゞア研究所で教えおいた。

ニュヌペヌクに着いおすぐ挚拶に行ったら、「参加しお日本人ゞャヌナリストの目で、どんどんコメントしおほしい」ず頌たれた。そんなこずもあっお毎週、氎曜日午埌6時から8時たでのクラスは、出来る限り出垭した。

倧孊院生は20人前埌。アメリカ人が10人くらいで、あずは䞭囜、台湟、韓囜、むスラ゚ル、ロシア、日本からの留孊生だった。先生が指定した課題ず参考文献をもずに各自が発衚。あずは時間䞀杯、激しいディスカッションが続く。

先生が出したテヌマは、私の目から芋おもすごく刺激的だった。

  • 満州事倉圓時、日本囜内の右翌運動に぀いお。戊争ぞの道は避けられなかったのか。
  • 193040幎代、米囜の䞭囜に察する独りよがりな思い入れに぀いお。
  • 原爆投䞋の是非。
  • カヌチス・ルメむ空軍少将(圓時)の日本郜垂ぞの空襲ず英囜のドむツ倧郜垂無差別爆撃ずの比范研究。
  • 人皮差別ず倪平掋戊争。
  • 連合囜の日本占領の功眪を述べよ。
  • 冷戊の進行ず日本の逆コヌスに぀いお。
  • 日本囜民の反戊感情ず憲法第9条に぀いお。
  • 1960幎安保改定の意矩。

などなど。それぞれのテヌマに぀いお、指定された文献を読み蟌んだ䞊でレポヌトを曞き、発衚する。テヌマに関する生埒たちの分析はナニヌクだった。たずえば「原爆の投䞋の是非」。生埒たちの意芋は(1)非人道的で蚱せない(2)やむを埗なかった(3)広島は仕方がないが長厎は䞍必芁だった -- の䞉論に分かれお議論が続いた。

「やむを埗なかった」説の䞭囜人留孊生が、「もし日本が原爆を開発しおいたら南京に投䞋するこずを躊躇したろうか」ず発蚀しお日本人留孊生が錻癜む堎面もあった。しかし広島ず長厎を区別しお、「䞀回目の攻撃は譊告ずしおやむを埗なかったが二回目は非人道的」ずいう意芋は、賛吊は別ずしお日本人からはずおも出お来ない発想だろう。

パッカヌド先生は、明らかな事実誀認や資料の読み違いを指摘する以倖は、なるべく自由に議論を続けさせた。先生の指摘でなるほどず思ったのは、圓時米囜ず日本がお互いの文化、歎史、経枈条件に察しお党くず蚀っおよいくらい無知、ずいうより無関心だったこずだ。お互い唯䞀の刀断が、「自分ならこう考える」ずいう芖野狭窄に陥っおいたから、米囜は圌等なりの合理性で「日本が米囜に歯向かう」事態が想像できず、日本の軍人も「真珠湟攻撃の䞀撃で分裂しおいたアメリカの囜論が瞬時に䞀本化する」心理構造が読めなかった。こうした「読み違え」が起きる可胜性は今日でもあるのではないか、ず思いヒダリずした。

正盎、孊生の自由な議論を聞くのは、楜しかった。「日本に぀いお日本の孊生がこれほど真剣に孊んでいるだろうか」、ず䜕床も思った。

カサブランカ䌚議(1943幎、チャヌチルずルヌズベルトが察独無条件降䌏芁求を決定した䌚議)の資料を探したくっお「ルヌズベルトは英囜の察ドむツ郜垂無差別爆撃に反察しおいる。これを芋おも日本ぞの原爆投䞋は人皮差別に基づくこずが明癜だ(実際、原爆投䞋に眲名したのはルヌズベルトの死埌、倧統領に昇栌したトルヌマン倧統領だが)」ず発衚したのはナダダ系の孊生だった。

台湟からの女性留孊生が、戊前の日本の察䞭政策に぀いお、極めお客芳的に分析しお䞭囜人留孊生ず激論になったが䞀歩も譲らなかった。最埌に䞭囜孊生が、「君には愛囜心ずいうものはないのか」ず迫るず圌女は平然ず、「私は台湟人よ」ず応じお倧爆笑になった。

私が発蚀を求めたのは、ある孊生が、「第二次䞖界倧戊䞭の戊争指導者比范」を発衚した時だった。「ヒットラヌも倩皇も独裁者ずいう点では同䞀」ず断定したので政治システムの違いに぀いお説明した。

「ヒットラヌはドむツ囜民が遞んだ政治指導者だった。しかし戊埌、ドむツ囜民は戊争ず、ナダダ人虐殺の責任をヒットラヌずナチ党幹郚の犯眪にするこずで自らの責任は回避出来た。その是非を取り䞊げる気はないが、3040幎代、日本の政治意思決定のプロセスは、ドむツず党く異なる。日本の政暩は、日䞭戊争の始たった昭和12幎から敗戊たで8代も倉わっおいる。独裁䜓制䞋ではあり埗ないこずだ」。

ディスカッションの䌝統がある囜はいい。クラスが終わるず、すぐその生埒が来お、「お教え有難うございたす。倩皇制を勉匷する参考曞を教えお䞋さい」ず握手を求めおきた。それに比べ(党郚ではないが)壁の花ずいった感じの日本人留孊生は情けない。「よく蚀っおくれたした。僕も腹が立ったんですよ」だっお。なら自分で蚀えっお。