「Webの父」と呼ばれるTim Berners-Lee氏が共同設立し、CTO (最高技術責任者)を務めるスタートアップ「Inrupt」が、ステルスモードから浮上して正式に事業を開始した。

Inruptは、Webを分散化させるためにBerners-Lee氏が構築したオープンソースプラットフォーム「Solid」の普及を後押しする会社である……と、説明されても、何のことやらイメージできない。ニュース記事もそんな感じの説明ばかりでよく分からない。そこでBerners-Lee氏が9月29日に公開した手記「One Small Step for the Web…」を読んでみた。SolidはWeb本来の価値を取り戻す試みであり、「Webの父」によるWebの再発明だ。そしてInruptはWebの再発明において、Web創生記におけるNetscape Communicationsのような役割を担う。

Webは本来分散したネットワークである。ゆるい接続がウエブ状に大きく広がり、どこかが欠けたとしても、その機能が損なわれることはない。ところが、GoogleやFacebook、Amazon、Appleといったプラットフォームプロバイダーが提供するサービスにユーザーが囲い込まれ、集中が進み、Web本来の持ち味を失いつつある。

例えば、買い物に関して私のことを最もよく知っているのはAmazonだ。Googleはメールでのやり取りやドキュメントについて知っているし、音楽に関してはAppleが良きパートナーである。いずれも長く使っているから、そこに私が存在するように便利に使える。それらは便利で快適な箱庭だが、引き換えに私たちはプラットフォームに個人情報やプライバシーを引き渡したり、または選択の自由を奪われている。だから、自分たちの知らないところで、ソーシャルネットワーキングサービスに蓄積してきたデータが政治的な目的に利用されるようなことが起こる。

「Solidは、Webにおける個人の力とつながりを取り戻すためのオープンソースプロジェクトだ。ユーザーが知覚価値として、デジタルの巨人たちに個人データを引き渡す今日のモデルを変える」(Berners-Lee氏)

Solidでは、アドレス帳、メールやメッセージ、フィットネストラッカーで記録した歩数といった個人のデータを「Solid POD」にストアし、それらをリンクさせてPDS (Personal Data Store)を構築する。Solid PODはSolid対応のWebサーバに存在し、自分でも構築できるし、オンラインのSolid PODプロバイダが提供するものを利用しても良い。数の制限はなく、好きなだけ所有可能だ。PDSのデータはユーザーが所有・管理し、そして読み書きのパーミッションをアプリに与える。

例えば、カレンダーなら、Webでも、モバイルでも、ユーザーがパーミッションを与えたSolid対応のカレンダー・アプリでPOD内のデータを使え、アプリでの作業はSolid PODのデータに反映される。別のカレンダー・アプリを使いたかったら、ユーザーはパーミッションを切り替えるだけ。他のユーザーとのデータ共有も設定できる。

このように書くと、何かすごいWebサービスが始まっているようだが、実際にはまだ何もない。InruptまたはSolid CommunityをプロバイダーにSolid PODを無料で作成できるが、それらは開発者向けに用意されたもので、今PODを得ても一般ユーザーがSolidで利用できるアプリはまだない。SolidはWeb創世記と同じような荒野状態である。

  • Inruptが考えるPDSブラウザ

今すぐにでもSolid PODでデータを管理したいというユーザーはたくさんいるだろう。では、アプリはどうだろう。ユーザーがデータを保有することで変わるのはユーザーだけではない。AmazonやGoogleに対抗できるようなアイディアを持っていても、これまで利用できるデータの差で太刀打ちできなかったスタートアップが、Solidではビッグデータを得て勝負できる。

そうしたエコシステムの繁茂を後押しするのがInruptである。だから、「Netscape Communicationsのような存在」だ。Netscapeというとブラウザの「Netscape Navigator」で広く知られるが、Webの創世記にLDAPディレクトリサーバを提供し、通信の安全を確保するSSL/TLS、インタラクションをサポートするJavaScriptといったWebを開花させる根幹技術を世に送り出した。Solidにおいて、その役割を担う会社をBerners-Lee氏が自ら手掛ける。

それが、どのような花を咲かせるかとても楽しみである。不安材料を挙げるなら、「ユーザー中心」であることにポジティブ過ぎるように思えること。実際、Berners-Lee氏自身「私はこの次世代のWebに対して信じられないほど楽観的だ」と述べている。

でも、現実的な見方をしたら、Solidが普及したとして、無料と引き換えに別目的のデータ利用を含めてパーミッションを求めるサービスが出てくるのは容易に想像できる。Solidは集中を避け、ユーザーが自分でデータをコントロールする選択肢を用意してくれるが、ユーザーが自身の判断でデジタルの巨人にデータを使わせる可能性だってあるのだ。