ハドソン川の奇跡

ここしばらく業界ネタで何本かコラムを書いたが、我々を取り巻く状況が目まぐるしく変わるので、書いている最中に事態が次々と進展してしまうということがしばしばある。

しかしこのコラムは速報ニュースではないので、リアルタイムのニュース解説は現役の方々に任せて、今回は業界の関心事からちょっと身を引いて、過去にも何度かやった映画の紹介を絡めた話をしてみたい。

今回の映画は「ハドソン川の奇跡」(原題"Sully")である。あのクリント・イーストウッドが監督で、トム・ハンクスが主演の2016年リリースの大ヒット作である。エアラインや空港などを舞台にしたパニック映画は1つの人気ジャンルとして成立していて、過去にもいくつか名作がある。

私的にはAMD勤務時代に飛行機には嫌と言うほど乗ったし、空港にも通算するととんでもない時間を使っていたのでこうしたエアラインパニック系の映画は好きではないが、この映画だけは特別である。この映画はUSエアウェイズのフライトで2009年に実際に起こった事件を基に制作されている。2019年が事件後ちょうど10周年ということで、米国ではかなり盛り上がったらしい。監督のイーストウッドは、できるだけ写実性を高めるために同機種のエアバス一機を購入して撮影したという気合の入れようである。原題の"Sully"は機長のチェスリー・サレンバーガーのニックネームである。

  • ハドソン川の奇跡

    2016年にリリースされた「ハドソン川の奇跡」は大ヒットとなった (著者所蔵イメージ)

あらすじ(ネタバレ含む)

この映画の簡単なあらすじであるが、サスペンス映画などと違って実際に起こった事件のドキュメンタリーを見ているようなものなのでこれを読んで映画をご覧になっても大した支障なく楽しめると思う。

  • USエアウェイズ1549便は2009年1月15日、満席の状態でニューヨークのローカル空港であるラガーディア空港を飛び立つと間もなく鳥の大群と遭遇し、2機のエンジンを同時に喪失する。
  • サレンバーグ("サリー")機長と副操縦士のジェフはすぐさま緊急事態を付近の管制塔に知らせると同時にAPU(補助動力装置)の始動を試みるが飛行機の推進力は回復しない。
  • 全推進力を失い高度もどんどん下がる中、管制塔からの指示は出発したラガーディアか、もう1つのローカル空港ティータボロ空港に引き返すというものだが機長サリーはジェット機にその力がないと判断し、眼下のハドソン川に不時着することを決断する。
  • 機長の「不時着に備えて準備」のアナウンスに客室はパニック状態になるが、乗務員の適切な指示でシートベルト等の準備を何とか整える(不時着の場合に備える姿勢は航空会社によって微妙に違いがあるが、大筋のものとしては、強い衝撃に備えて両手で前の席の上部をつかんで、頭も前の座席にあてておくというのが正しい姿勢の1つ)。
  • エアバス機は次第に高度を下げハドソン川に突っ込むが、微妙な進入角度の調整でクラッシュせずに奇跡的に不時着を成功させる。しかし、真冬のニューヨークは-6℃の寒さ、しかも不時着地はハドソン川ということでかなり脱出が難しい状態だが、冷静沈着な乗務員の指示と付近の民間船などの必死の救助活動で機長を含めた乗客・乗務員155人全員が奇跡の生還を遂げる。
  • サリーとジェフは時の英雄となるが、国家運輸安全委員会(NTSB)は空港に引き返さなかったサリーの判断が正しかったかどうかについての調査を開始し、サリーとジェフは公聴会に呼ばれ質問を受けることになる。NTSBの調査はエアバス社にとっては多額の保険金がかかる重要な問題である。ハドソン川への不時着という前代未聞の出来事に対し、調査委員会のトーンは「サリーの判断ミスでは?」という方向に向かう。専門家の意見として鳥の大群との遭遇で両エンジンを同時に失う可能性はかなり低いなどのコメントも紹介され(この件は実際に両エンジンの回収により、推進力ゼロであったことが後に証明されるが)、サリーは自分の判断に一瞬自信を失いかける。最後にその公聴会の中で、フライトレコーダーなどに残された当時の状況を全てインプットしたコンピューター・シミュレーションによる結果が披露される。フライトシミュレーターに映る無表情の機長と副操縦士は、管制塔の指示通り何の躊躇もなく事故発生後すぐさま引き返しラガーディア、ティータボロ両空港ともに無事帰還する。
  • このシミュレーション結果に対しざわめく公聴会だが、サリーは「このシミュレーションには人的要因が全く反映されていない」と感じ、事故発生報告後の空港への帰還指示と機長の判断の間に、「とんでもない事態に遭遇した場合の人的思考判断にかかる時間として」35秒の時間を持たせたシミュレーションを要求する。35秒間待たされたシミュレーションのパイロットは、その後の管制塔の指示に従うが空港への帰還に失敗し、これも全く無表情にニューヨーク市街地に多大な被害を与える結果を導き出す。
  • 事故発生後、飛行機の高度が極端に下がったために管制塔との交信が途絶えたので最後に提出された証拠はコックピット内の録音であった。両操縦士の肉声を聞いた調査委員会は事態を理解しサリーの判断が唯一の正しい判断であったと結論し、サリーは副操縦士、乗務員とともに称賛される。

ストーリー自体はかなり単純だが、実際にあった話となると何回観ても力が入る。

人間判断とAI判断の間にあるもの

この事故は世界中に報道されたこともあり、この映画とは別に実際の事故を報告した内容などがインターネット上のあちこちに掲載されている。それによれば事故後の調査委員会はもちろん開かれたが、そこではこの映画に登場するようなサリーを苦悩させるような場面はなく、当時のブッシュ大統領、次期大統領オバマ氏からの祝福などもあり、サリーとジェフは最初から英雄として扱われたらしいが、この辺は名監督イーストウッドのヒューマンドラマとしての演出という事であろう。

トム・ハンクスの名演もあって何度か繰り返し観てしまいコラムを書くことになった。いくつかの重要な突っ込みどころはあるにしても、この映画の新鮮さは「人間の咄嗟の判断とAIの"冷静な"判断の間にはどういった違いがあるのか」という根源的な疑問を想起させることにあると思う。

というのも、最近とみに現実化している自動運転では、判断に至るプロセスが全く異なる「人間の判断」と「AIによる判断」をどう位置づけるかかが重要になると考えられるからだ。私は自身で車を運転するが、隣のレーンにいきなり無人の車が止まってしばらく並走する事態となった場合、私はその車がどういう判断をするのか全く見当がつかないだろうと思ってしまう。逆を言えば、自動運転は一気にすべてがAIによってコントロールされた環境ではかなり現実味があると思うが、その中に1つでも人間が運転する車がいた場合には、いかに優れたAIシステムでも対応不可能な状態が生まれるのではないかと余計な心配をしてしまう。

この映画の最後で、「副操縦士として何かコメントはありますか?」と委員会から聞かれた時のジェフの返答が粋である。「もしまた同じ事態になったとしても、同じ判断をすると思うがその時は7月がいいな」。両操縦士は事件後復職して定年まで働いたという。

著者プロフィール

吉川明日論(よしかわあすろん)
1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、2016年に還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。

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