ある英字新聞で面白い記事を読んだ。今年の3月に日本中を沸かせたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)での大立役者となった大谷選手の話である。大谷選手は米国チームとの決勝戦の直前、日本チームのメンバーに向かって「僕からは1個だけ。憧れるのをやめましょう(中略)憧れてしまったら、超えられないので(中略)彼らへの憧れを捨てて、勝つことだけ考えていきましょう。」というあの発言である。このシーンは何度も報道されたので憶えている方も多かろう。英字新聞の記事は、この大谷選手の発言をChatGPT-4、Bard、Bing、DeepLの4つのAI翻訳サイトで英訳させた結果の比較である。「AI翻訳対決」と題したこの記事では、それぞれのAI翻訳による英訳結果を専門家に評価してもらうという内容だ。

「憧れるのをやめましょう」のベスト翻訳は?

結果から申し上げると、「AI翻訳対決」の勝者はChatGPT-4であった。ChatGPT-4によるこの有名部分の英訳は「Let's stop idolizing them」であった。他のAIサイトでは「Let's stop admiring them」、「Let's stop looking up to them」、「Let's stop pining for them」などという表現だったが、専門家の評価はChatGPT-4の英訳に軍配を上げた。確かに「有名選手たちをアイドル視するのはやめよう」というこの訳は大谷選手が伝えたかった心情を適格に伝える英訳文だと感じる。他の部分でも、ChatGPT-4の英訳は他のサイトに比較して完成度が高かった。しかし、この記事はAI翻訳について下記のような指摘もしている。

  • 先行して登場したChatGPT-4は多くのユーザーが利用し、学習経験も豊富なのでこの結果になったと思われ、今後の趨勢はわからない。
  • AI翻訳はコストパフォーマンスに優れ、技術翻訳などの特定分野では人間による翻訳業にとって代わる可能性は十分にある。
  • しかし、AI翻訳には明らかな誤訳が見受けられることがあり、その結果をそのまま受け入れるのは禁物で、人間によるチェックが必要。

AI翻訳が意味すること

AI研究・認知科学の世界には「シンボル・グラウンディング(記号接地)」という概念があるという話を聞いたことがある。通常人間が言葉の意味を理解するプロセスでは、使われた言葉にその意味を持たせるために、現実世界から受け取る具体的な情報について、情動的・身体的な感覚を持つ必要があるという考えだという。AIは言葉の意味は全然わかっていないし、考えてもいない。現在の生成AIは単語や文章の意味を考えて結果を生成しているのではなく、過去の使われ方の例、慣用句などから統計的に判断して全体的に自然に流れる文章をつぎはぎしている。つまり言葉を「記号」として扱っているだけで、意味を成すものとして提示しているわけではないということだ。

例えば、コロナ禍でしばらく会えなかった米国人の友達との再会を願って、「4年前に行ったあの焼き鳥屋にまた行きましょう」というメッセージを考えたとする。単純な文章なのでAI翻訳を使えば完璧なものができるだろう。しかし、その友達をその気にさせるためには、完璧な英訳だけでは足りない。この文章にはそれ以上の意味がある。4年前に行ったその場所の雰囲気、焼き鳥の味、呑んだビールの美味さ、その時の会話と相手の笑顔、など実に多くの情報が含まれていて、この文章を読んだ友達を「そうだ、是非ともあの場所で再会しよう」、とその気にさせるには、単純な言葉の並び以上にその文章に込められた他の情報が重要な役割を持つ。そして、その言葉の選び方が目的にあった最も効果的な文章を生成していると言える。

何にもまして、その経験を共有した相手にその提案をするアイディアの生成があって初めて「あの焼鳥屋での再会」が実現するのである。そういう意味では、大谷選手が重要な局面でチームメートに放ったあの言葉には、非常に重要なメッセージがあって、大谷選手ならではの多くの含意があったと考えられる。こう考えると、AI翻訳が活躍する当面の分野は、この記事が指摘するように技術翻訳などの限定分野に限られるのかもしれない。

AI翻訳は英会話の必要性を駆逐するか?

先日、英会話に未だに自信が持てない外資系に勤める私の友人が、「AI翻訳の登場でやっと英会話のストレスから解放される」と言っていたのを思い出した。確かに、各国からの参加者が英語で議論するビデオ会議で、AI翻訳を併用して英語のやり取りを瞬時に文字起こしするアプリなどを使ってみると、その威力はかなりなものであることが実感できる。しかし、これだけAI翻訳が発達した現在でも、相変わらず英会話教材のビジネスが盛んな日本の現状を見ると人々は未だに英会話習得への欲求があると見える。長らく外資系に勤務したお陰で、すっかり英会話のストレスに慣れきってしまった私は、ブロークンではあるが「言いたいことははっきり伝える」、「わからなかった事はわかるまで聞き返す」というトレーニングを受けてきているので、ビジネスにおける英会話の要件についてはある程度の考えを持っている。

まず、人間関係の構築には自分自身の言葉による働きかけが必須であることだ。言葉、言い回し、顔の表情、発言のタイミング等にはその人がどんな人であるかを表現する情報がたくさん詰まっている。こうした情報は人間関係の構築には重要な要件となる。

また、よくある話であるが、本社から幹部が来日し、客先の幹部との会議をセットしたときなどは、プロの通訳を雇うより、自分で通訳を買って出るほうが会議をスムーズに進めることができる場合が多い。英語の直接的な表現と日本語の間接的な表現の違いにより、話がかみ合わない、あるいは話が変な方向に向かうような雰囲気になった時には、「敢えて翻訳しない」、「大胆に意訳する」などの例はざらにある。こうした行為は外交の場などでは御法度であるが、スピードと効率が重要となるビジネスではある程度許されるものだと思っている。

場の雰囲気を掴みながら会話を有利な方向にもっていく英会話の技術は、相手が人間であるある限り必要であり、AI翻訳では未だにとって代われない部分が多くあると思う。