はじめに
最近かかりつけの医者にすすめられて、健康維持のために水泳を再開した。土、日の昼前に約30分くらいノンストップで1km泳ぐ。水泳は以前からやっていたので、仕方なくやるという気持ちではなく、かなりリラックスしてやることができる。何と言っても、その後のビールを、昼間から何の後ろめたさもなくグイグイ飲めるところがよい。
水泳のもう一つの利点は、泳いでいる間、聞こえるのは水を切る水中音のみ、頭の中でいろいろ考えることができる。特に昔の事が次々とよみがえってくる。25mプールなので行って帰ってくると50m。100、200、300とやるうちに、いつも思い出すのが、私がAMDで経験したマイクロプロセッサー開発競争の時代だ。メートルをクロック周波数に置き換えると、いろいろと思いだす。
200mを超えると「K6登場(いきなり233MHzでIntelのPentiumを抜いたのだから、さぞかしIntelもあせったろうな…因みにその約1か月後IntelがPentiumⅡの266、300MHzをリリースしている)」、300mを超えだすと「K6-2登場!!」、400・450mになるとK6-Ⅲ(それにしても、なんで3でなくⅢだったんだろう…でもⅢはベンチマークやると抜群の性能だったなあ、このクロックがずーっと続いたらオモシロかったろうな…)とかという具合である。そして500mを過ぎると俄然調子が出てくる。K7の登場である(500、550、600、650MHzで1999年8月9日にAMD Athlonとして正式リリース)。
このうちわ受け話シリーズは(続けばの話だが)、あのころ、そしてその後少なくとも15年は確実にコンピューター業界の話題の中心の一つであったと思われる、AMD対Intelのマイクロプロセッサ開発競争、あの血沸き肉躍る時代で私がAMDで経験したこと、背景、などを、今だから話せる秘話なども交えて記してゆこうという試みである。
K7登場
話をいきなりK7の登場から始めたい。というのも、K7は今でも私の業界原体験の中心であり、その時代のこの業界で一番AMDが脚光を浴びたイベントだったからだ。K7とはAMDが第七世代プロセッサとして開発したCPUアーキテクチャのコードネームであり、製品としてはAMD-Athlonとして知られている。K7は1999年の8月正式製品リリース(マイクロアーキテクチャの正式発表は1998年10月)、ということは、その開発は(あるいは基本的なアーキテクチャの原型は)少なくともその5年前には始まっていたはずである。1994年、1995年あたりというと、AMDがリバースエンジニアリング(後程述べる)で開発したAm486プロセッサを出荷中、その間AMDは独自開発のK5で悪戦苦闘、そして1995年の突然のNexGen買収(この辺の事情も後述の予定)、市場では、AMD、NexGen以外にもCyrix、 IDT、 VIAなどの会社がIntel互換プロセッサの開発にしのぎを削っていた時代である。
そのころ私は日本AMDでマーケティングの仕事をしていた。1986年の入社であるから既に入社10年になるかという時期である。そのころ業界では、PC/ATの登場後、雨後の竹の子のようにAT互換機メーカーが(今のHPの一部となったCompaqなどはこの時に登場した)現れ、PCがいよいよコンピューターの、遂には電子機器全体の中心プラットフォームとなりつつあった時代であった。その変化に対応するように、以前は半導体デバイスのデパートのようだったAMDは、そのフォーカスをはっきりPC用のマイクロプロセッサに絞っていた。
そのころ時代は、Wintelという言葉が示す通り、OSはWindows(マイクロソフトがWindows 95 OSR 2.1をOEM向けにリリースしたのは1996年10月)、CPUはインテルという無敵の独占ビジネスモデルが形成されつつあった。 その独占状態にCPUで割って入ろうというのがAMDを含めた互換プロセッサベンダーの野望であった。 特にAMDは、PC/ATが登場する以前にIntelがMotorolaの68000という優秀なプロセッサ(当時エンジニアからはX86と比較にならないほどエレガントな設計だといわれていた)と市場での主導権争いをしていた時代、IntelのセカンドソースとしてIntelと共同戦線を張り、ともにMotorolaと闘ったという過去もあって、Intelだけに勝手をさせるか、という気概には大きなものがあった。
そもそもPC(パソコン:パーソナルパーソナルコンピューター)などという概念もない時代に、IBMがPC/ATというコンセプトを開発し、そのメインのOSにマイクロソフト、CPUにX86の採用が決まり、その後PCが爆発的成長をとげた経緯については、いろいろな刊行物で述べられているが、X86CPUの採用にAMDのバックアップが大きく貢献していた事実はあまり知られていない。その後、盟友であったはずのAMDとIntelがどうして源平合戦のように争いを続けたかについては、別の話で述べてみたい。
(次回は3月9日に掲載予定です)
著者プロフィール
吉川明日論(よしかわあすろん)
1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、今年(2016年)還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。
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