「H-II高度化」とはなにか

H-II高度化開発は、1994年のH-IIの初打ち上げの直後、つまりH-IIAの開発が始まる前に始まった。その開発を任されたのが、のちにH3ロケットの初代プロジェクト・マネージャーを務める、NASDA(現JAXA)の岡田匡史氏だった。

H-II高度化の目的は、運用性の向上とコストダウンだった。とくに、衛星フェアリングや第2段機体、ロケットエンジンに大幅な設計変更を行い、運用性の改善を図った。

H-IIの「LE-5A」エンジンは、H-Iロケットの「LE-5」を改良したものだった。ノズルで冷却した水素をタービン駆動ガスとして使用する「ノズル・エキスパンダー・ブリード・サイクル」を採用していた。

一方、H-II高度化で開発された「LE-5B」エンジンは、燃焼室で冷却した水素を活用する「チャンバー・エキスパンダー・ブリード・サイクル」に変更した。

また、燃焼室をチューブのろう付け構造から銅溝構造に改めたことで、構造的な信頼性が向上し、大幅なコスト削減にも寄与した。

さらに、ノズルを取り外した状態で燃焼試験ができるようにもなり、エンジンの領収試験を、高コストの真空模擬試験で行う必要がなくなったことでもコスト削減を実現した。

  • LE-5Bエンジン
    (C)JAXA

もうひとつの大きな改良点がタンクだ。H-IIの第2段タンクは、ひとつのタンクを真空断熱した仕切りで分け、それぞれに液体水素と液体酸素を入れる「共通隔壁」が用いられていた。これにより、タンク全体の容積を最適化するとともに、軽量化も実現していた。

一方、高度化では、別々のタンクをトラス構造で接続する形式に変更し、組み立ての容易化、推進薬充填時の温度・圧力管理の簡素化を実現し、コストダウンや運用性の向上を図った。

H-IIの当初のコストは180~190億円とされ、国際水準と比較して高価だったが、高度化により約140億円へと下がった。

さらに、この高度化の一環として「高機能化」という開発も行われた。高機能化では、宇宙空間を慣性飛行する時間を従来の30分程度から数時間にまで拡張し、高度の高い軌道に衛星を投入する能力の向上をめざした。

また、エンジンに推力可変(スロットリング)機能をもたせ、さらに複数回のエンジン着火を容易に可能にすることで、軌道の異なる衛星を複数同時に打ち上げたり、究極的には静止軌道への直接投入をも可能にしたりといったことをめざした。

高度化開発ではほかにも、固体ロケットブースター(SRB)の改良なども含め、H-II全体を改良し、長く運用することを意図していた。

しかし、1996年に後継機となるH-IIAの開発が始まり、H-IIは8号機をもって運用を終えることが決まった。そのため、高度化開発では第2段の改良のみに注力し、なおかつH-IIでの適用も8号機のみとなった。つまり、H-IIAへの技術的な橋渡しという意味合いが強くなったのである。

  • H-II 8号機に使う、LE-5Bエンジンの燃焼試験の様子
    (C)JAXA

H-II 8号機が残した希望

H-IIは1994年2月4日に試験機1号機の打ち上げに成功し、同年8月28日には試験機2号機、1995年3月18日には試験機3号機の打ち上げに成功した。

また、商業打ち上げの受注やコスト削減をめざし、1990年には衛星打ち上げを請け負う民間ロケット会社「ロケットシステム」(RSC)が設立されており、この試験機3号機から打ち上げを請け負っていた。

1996年8月17日には4号機の打ち上げが成功し、初めて「試験機」とつかない、つまり運用段階に入った打ち上げとなった。その後、衛星の開発状況などの都合から、号機と数字と打ち上げ順が入れ替わり、1997年11月28日に先に6号機が打ち上げられた。5号機は1998年2月21日に打ち上げられたものの、2段エンジンが早期に燃焼を停止し、打ち上げは失敗に終わった。

5号機失敗の原因のひとつは、第2段エンジン「LE-5A」の燃焼室の、ろう付け部が破損したことだった。

ただ、このときすでにH-II高度化開発によって、新しい第2段機体とLE-5Bエンジンが開発されていた。また、LE-5Bの燃焼室はLE-5Aのものとは大きく異なっており、ろう付けを用いない構造に設計変更し、冷却溝を機械加工と電鋳により成形した一体構造としていた。そのため、この失敗による直接的な影響はなかった。

その後、ふたたび号機と打ち上げ順が入れ替わり、先に8号機が打ち上げられることになった。この8号機こそ、H-II高度化を適用した初めての機体だった。

しかし、1999年11月15日に種子島宇宙センターを飛び立った8号機は、第1段エンジンの問題で失敗に終わった。

それでも、LE-5Bや新しいタンクなどの開発成果は残った。なにより、この事故の中で、LE-5Bはケガの功名ともいえる活躍を残した。

H-II 8号機は、第1段に問題が起きたあと、第2段機体は予定よりも早く、しかも不安定に回転した状態で第1段機体から切り離され、その状態でLE-5Bが始動されることになった。

通常、液体水素や液体酸素といった極低温の液体推進薬を使用するエンジンを始動させる際には、ポンプの吸い込み不良を防いで安定始動させるために、あらかじめ推進薬でエンジンを十分に冷却し、さらに推進薬を所定の圧力まで加圧して供給する必要がある。

8号機のLE-5Bは、冷却やタンク圧力が十分でない状態で始動することになった。ところが、そのような悪条件の中でも正常に立ち上がり、計画どおりの性能を発揮し続けることができた。

のちにH-IIAロケットの打上執行責任者を務めることになる、三菱重工(当時)の徳永建氏は、第2段の開発に関しては主任という立場で関わっていた。打ち上げ時には種子島宇宙センターで、8号機が送ってくるデータに釘付けになっていた。

「このときは、ペンレコーダーで、落下する第2段から送られてくるデータを見ていました。タンク内の圧力などがぐちゃぐちゃになっているんですね。ところが、そんな中でもLE-5Bが立ち上がったことを示すデータが届いて、『あれ?』と。驚きましたね」(徳永氏)

  • かつて三菱重工でH-IIやH-IIAの開発に携わった徳永建氏(現・MHIエアロテクノロジーズ 執行役員 防衛・宇宙事業部 技師長)
    (撮影:三菱重工)

8号機は最終的に、飛行を継続すると地上に落下する危険などがあったことから、地上からの指令で破壊された。だが、この一件によってLE-5Bと、そしてエキスパンダー・ブリード・サイクルという仕組みそのものが、故障や想定外の状況に強い頑丈さと、高い信頼性を持っているということが実証されたのである。

こうした成果、そしてH-IIが果たせなかった多くの課題は、H-IIAロケットに託されることになった。

  • H-II 8号機の打ち上げ
    (C)JAXA