水素社会という言葉は、すでに政策や産業界の中で一般的なものになった。再生可能エネルギーで水素を作る“グリーン水素”の議論も盛んだ。一方で、水素を大量に使うという視点に立つと、一般的な気体としての水素とは異なる別の姿が浮かび上がる。それが「液体水素(液化水素)」だ。
水素をマイナス253℃まで冷却して液化することで、体積あたりのエネルギー密度は飛躍的に高まる。これは、小規模利用には不向きでも、大規模輸送・大規模貯蔵という観点では重要な特性になる。しかし、現場に近いところで話を聞くと、普及の時間軸を決めているのは製造だけではないことが見えてきた。むしろ、作った水素をどう貯め、どう運び、どう安全に使うか。その“取り扱い”の難しさがボトルネックになっている。
今回、液体水素の研究に長年携わり、ロケット用途で培った知見を産業側にもつなげてきた宇宙航空研究開発機構(JAXA) 宇宙科学研究所の小林弘明 教授(宇宙科学研究所 能代ロケット実験場 所長)に、液体水素市場の現状と課題、そしてJAXAの立ち位置を聞いた。
液体水素の運用は「漏れる」前提で設計する
安全は“漏れないようにする”だけでは成り立たない
水素は分子が小さく、完全に閉じ込め続けるのは難しい。小林教授は「基本は漏れないようにすることが前提」としたうえで、社会実装を考えるなら、“放出が起きる”ことも織り込んだ設計思想を取り入れることが不可欠だと指摘する。
重要なのは「絶対に漏らさない」だけではなく、必要な箇所から安全に放出する技術、そして地震などで破損し「どうしても漏れる」ケースを想定したリカバリーを含めた設計が“ワンセット”として求められる点だという。
この捉え方は、水素を「危険物」として利用を遠ざけるのではなく、同様に揮発性で引火・爆発の危険性があるガソリンと同様に「危険になる条件が分かっているなら管理できる」という考え方につながる。必要十分な距離を確保し、漏洩し得る箇所にはセンサーを配し、適切に運用すれば、社会の中で扱うことが可能なエネルギーになる、それが小林教授の語る液体水素の運用に対する前提である。
LNGの延長線では扱えない液体水素
温度・拡散・爆発範囲、そして“空気が液化する”現象
液体水素の議論でしばしば出てくるのが「LNG(液化天然ガス)基地の設備が流用できるのでは」という見立てだ。確かに大型の貯蔵・受け入れ設備という意味では似た絵は描ける。しかし、小林教授は「LNGが液体水素に変わると、変えなければならない点は非常に多い」と強調する。
LNGと液体水素の違いとしてはLNGはマイナス160℃前後で液化され、運用されるのに対し、液体水素はそこから約100℃低いマイナス253℃という極低温下で運用する必要がある。この温度差だけでも材料や断熱設計に大きな影響がでてくることになるのだが、本質的な違いはそこだけではない。着火・爆発の濃度範囲やエネルギー量、密度が大きく異なるため、設備が破損した時の拡散挙動そのものがまったく変わるのだ。
さらに液体水素特有の現象として挙げられるのが、周囲の空気を液化してしまう点である。液体水素という極低温の存在が周囲の空気を急激に冷却されると、空気中の酸素が液化、液体水素と液体酸素が混ざり合う状態が生じる可能性がでてくる。液体水素と液体酸素、高性能ロケットの推進材として組み合わせて用いられ、日本の基幹ロケットであるH3や前世代のH-IIAロケットなどの主力ロケットエンジンにも使われてきたことでも知られるこの2つの液体。それがロケットでの利用時はそれぞれ別のタンクに収納され、必要に応じて燃焼室で合わせて燃やされることで爆発的な推力を得るのに対し、タンクからの液体水素の漏出時は、こうした制御が効かずに周囲の酸素を液化し続けることで爆発リスクを生じる可能性がある。
これは「漏れるとまずい」という直感的な理解だけでは不十分だと言える。「漏れたときに何が起きるか」を工学的に理解・把握し、設計に落とすことが不可欠な領域だと言える。
最大の課題は供給が足りないこと
液化水素を作れる事業者は世界的にも限られている
市場側の現実として重い制約が供給の問題だ。小林教授は、現状の液体水素について「需要と供給のバランスが取れていない」ことを指摘する。さらに、国内で液体水素を製造できる事業者はごく一部の企業だけに限られているという厳しい現実を明かす。世界的に見ても同様にプレイヤーは多くないという。
需要家を増やすことで供給量も増やし、その量産効果で価格を下げて、市場への普及促進を図るというのが一般的な市場拡大戦略であり、水素についても同様のことが期待されている。しかし、「最近は水素社会に向けた実証が活発化してきて、ロケット以外での液体水素の利用が増えてきたほか、その実証規模も大きくなってきた」(同)というが、実のところ、液体水素メーカーが少ないため、供給が追い付いていない。そのため、最大の需要家として期待され、LNGガスによる発電の代替として想定されている水素発電も長期稼働できるだけの十分な量を確保できないため、採算が取れるレベルの運転には至っていないという。再生可能エネルギーや石油改質で生成された水素ガスを液化して、それを供給するためのプラントも必要な量が供給できていないなど、「いろいろなところが足りていない」(同)ということが水素社会の実現の障壁となっているという。
また、水素の活用は「その製造方法(グリーンやブルーなどの色で表現される)」の議論とセットで語られることが多いが、社会で実際に使うためには、それぞれの用途に応じた品質を確保することも避けて通れない問題となる。燃料電池や発電、研究など用途によって要求される水素の純度や品質が異なっており、ISOなどで国際的な標準化も進みつつあるというが、こうした品質確保と標準化の行方が、今後の供給網の拡大を左右することも考えられる。
実証が市場を作る
JAXAの研究成果が社会実装を促進
液体水素のサプライチェーンは、机上の設計や理論検討だけでは前に進まない。象徴的なのが、大規模拠点整備の裏側でJAXAの能代ロケット実験場での液体水素研究の成果が活用されてきたという点だ。
小林教授によれば、例えば現在、神奈川県川崎市で進められている世界最大級の液化水素貯蔵タンク(貯蔵容量5万m3)、海上荷役設備(出荷/受入両機能を含む)、水素液化設備、水素送ガス設備、液化水素ローリー出荷設備を備えた、世界初の商用規模の液化水素基地「川崎LH2ターミナル」に導入される機器の“かなりの部分”が、能代ロケット実験場の液体水素試験設備で試験が行われ、実際に液体水素の環境下で問題なく利用できることが確認されたという。
ポンプや船からの受け入れに用いられるローディングアームなども、そうした実証ができたからこそ、安全確認が進み、使用しても問題が生じないという判断につながったという。
こうした動きから見えてくるのは、液体水素市場が「製品」だけでなく、設備・部品・安全機能・評価の束として立ち上がっていくという構図だ。
最大の課題は「試験できる場所が少ない」
開発がスローダウンする根源的な問題
現在、さまざまな液体水素に対応するための機器などの開発現場で深刻になりつつあるのが「試験場所」の不足である。
小林教授は、国内で液体水素を自由に取り扱って試験できる場所が限られており、そのことが原因で「開発がスローダウンしている」と語る。
背景には、安全確保の難しさがある。高圧ガス保安法に則って安全に行うことが前提とはいえ、爆発事故などが絶対に起こらないとは言えないことを考えれば、民家が近い場所に設置することが難しいなど立地制約は大きい。
「JAXAの規定でも、想定される最悪のケースを考えて安全な距離を設定している。小さいものであれば8mほどだが、大きなものは100mを越えて、全員その範囲内から退避したことを確認したうえで試験を行う必要がある。近年、試験規模は大きくなる傾向があり、その際は範囲内にあるほかの設備にも入ることができないという課題がある。距離、人、設備の兼ね合いを考慮する必要がある」(同)と、長年にわたって液体水素に関する試験を行い、さまざまな知見を有しているJAXAでさえ、安全を確保することを優先している。
結果として、比較的使いやすい拠点に依頼が集中し、大学などで「気軽に実験できる環境」は指折り数えるほど、という実態がある。
問題なのは、これが人材育成とも直結している点だ。試験できる場所が少ないということは、新規の人が入りにくいということにつながる、そうなると課題の解決がなかなか進まない、結果として実用化が遅れる、という悪循環が生まれることとなる。小林教授は、各地の大学などを中心に産学連携による試験環境の整備が進むことが理想だとしつつ、そこには予算やその施設や設備を導入するに足る説明責任という壁があることも指摘しており、一筋縄ではいかないことを示唆した。
JAXAが見据える、ロケットで培った知見を部品・設備・安全基準への“横展開”
では液体水素を長年にわたって活用し、そのノウハウを蓄積してきたJAXAは、液体水素の社会実装にどう関わっていくのか。小林教授は、JAXA自身が「液化水素に関する技術を独自に開発する」というより、産業界の動きと接続し、これまで蓄えてきた知見を横展開していく立ち位置にあると語る。
能代ロケット実験場での試験の成果は、すでに川崎LH2ターミナルに多数活用されるほか、京セラとのハーメチックコネクタの実用化など公表されている範囲でも多岐にわたる。実際、液体水素の社会実装は、燃焼器や発電機だけでなく、ポンプ、バルブ、シール、センサー、ローディングアーム、貯蔵、リスク評価といった“コア機器”の束で成立する。小林教授は、こうした液体水素で活用が可能であることが実証されたコア機器を世界に供給できるようになれば、基準制定にも関与しやすくなり、結果として産業競争力につながる、という見立てを示す。
“完成した技術”ではない液体水素
若手が挑める未解決の研究テーマは山ほど
「液体水素は完成された技術ではない」。取材中、小林教授はこの点を繰り返し強調していた。例えば液体水素は蒸発しやすく熱管理が難しい。気体に戻ろうと常に沸騰した液体が供給されていく状態であるため、振動などが危険につながることも懸念されるが、そうした二相流動(液体と気体が混在する流れ)の制御であったり、空気の液化現象の予測やシミュレーションなど、そうした知見は世界的に見てもそろっていない。
だからこそ、研究者・技術者が活躍できるテーマがまだまだ多く残されていると小林教授は指摘する。だからこそ、液体水素に関心を持つ若い世代に向けて「やりがいのあるテーマも数多くある」というメッセージは、エネルギーの転換期にある技術課題を現場の目線で言語化したものだと思える。
液体水素市場は「供給」「基準」「実証」の3つの組み合わせが鍵に
液体水素の社会実装は、派手な最終製品だけでは語れない。供給プレイヤーの少なさ、品質・安全の標準化、そして実証の場の不足という“地味だが本質的な”課題が、普及のテンポを左右しているといっても過言ではない。
そうした状況にあってJAXAは、ロケットという極限の現場で液体水素を扱ってきた知見を持つ。液体水素の普及のために求められるのは、その知見を設備や部品、安全設計、評価へと落とし込み、産業界の取り組みと接続していくことだろう。水素社会を未来の「構想」から目の前の「現場」へ移すための鍵は、まさにそこにあるといえるだろう。
