国立情報学研究所(情報研)は3月10日、カイコガが片方の触角を失っても残された触角だけで匂い源へ到達できる行動原理を解明し、それを応用することで、2つあるセンサの片側が故障しても精度を維持したまま室内外で匂いの源を探索可能なロボットシステムを開発したと発表した。

  • 虫の適応的な匂い源探索能力を持つロボットシステムの概要

    生物実験による機能解明と工学的な再構成によって実現した、昆虫の適応的な匂い源探索能力を持つロボットシステムの概要。(出所:情報研Webサイト)

同成果は、情報研の志垣俊介助教(情報学プリンシプル研究系)、東京科学大学 工学院の倉林大輔教授、東北大学大学院 工学研究科の大脇大准教授らの研究チームによるもの。詳細は、英科学誌「Nature」系のAIとロボティクスを扱う学術誌「npj Robotics」に掲載された。

災害救助など過酷な環境での活用にも期待

ヒトにとって、嗅覚のみを手がかりとして目的地を特定するのは容易ではない。空腹時に漂う香りに誘われて飲食店へ入るような経験は一般的だが、その探索範囲は基本として近距離に限られる。これは、ヒトが外界情報の取得を視覚に大きく依存しており、長距離移動にはランドマークなどの視覚情報を頼りにしているためである。

しかし、視覚が意味を成さない、もしくは制限される環境下で生活する生物は少なくない。特に昆虫の多くは、嗅覚が人間よりも遥かに発達しており、化学物質を外界情報の取得や交尾相手を探索するための主要な手段として活用している。中でもカイコガは、キロメートル単位で離れたメスから放たれたフェロモンの分子のほんのわずか数個を捉えて居場所を探し出せるという。

昆虫は極めて小規模な脳と単純な神経系しか備えていないにも関わらず、風に乗って拡散する匂い分子を迅速に感知し、食糧や交尾相手の元へ正確に向かうことができる。こうした「匂い誘導型ナビゲーション」は、神経科学や遺伝学、行動学など、生物学の観点から長年研究されてきたが、近年はこの生物の巧みな行動原理をロボティクスに応用する研究も進展しているとのこと。例えば、災害救助や危険物・爆発物探査、環境モニタリングなど、実社会での自律探索システムへの応用が期待されている。

従来の多くの匂い誘導型ロボットは、左右両側に配置された匂いセンサが正常に作動することを前提に設計されている。しかし実際の運用環境では、センサの故障によって片側の情報が欠損する可能性があり、これが性能低下や探索失敗につながる重要な課題となっていた。こうした問題に対して頑健性を保つシステムはまだ確立されていなかったため、研究チームは今回、昆虫の行動戦略を模倣することで、ロバストな匂い探索を実現する新しい枠組みを提案したという。

今回の研究では、モデル生物としてカイコガ(Bombyx mori)の雄成虫が選ばれ、性フェロモンを追跡する行動の分析が行われた。通常、カイコガは頭部にある左右一対の触角を用いて、両側の情報を比較する「バイラテラル」な匂い情報取得により、効率的な匂い源探索を実現している。

触角が2本1組である以上、その一方を失えばカイコガは匂いによるナビゲーション能力が大幅に低下すると推測される。しかし実験の結果、カイコガは残された片側の触角から得られる情報に基づき、行動を適切に調整することで正確に匂い源に到達できることが確認された。このことから、残された触角で受容する匂い信号の受信位置や現在の身体の向きの情報を統合し、行動決定プロセスを状況に応じて変化させていることが明らかにされたとする。

研究チームは、この行動決定プロセスの妥当性を検証するため、カイコガに似たセンサシステムをロボットに実装。室内および野外環境で探索実験を実施したところ、外乱の多い環境下でも、片側センサが故障した条件で故障前と同等の探索性能を発揮することが確認された。昆虫に倣った適応戦略が探索成功率を維持し、高い効率を示した事実は、従来のアルゴリズムでは困難だった「感覚器官の損傷下における頑強な匂い誘導」が可能であることを証明したものとした。

今回の研究成果は、生物の行動原理を工学システムに応用する「生物規範型ロボティクス」の新たな展開を示すものとする。災害対応などのシナリオに対し、長期的な自律探索機能を持つロボットシステムに対する設計指針に貢献するものとしている。