慶應義塾大学(慶大)とTOPPANホールディングス(TOPPAN)の両者は9月8日、量子コンピュータの状態空間を活用することで、古典的機械学習の特徴空間を指数関数的に拡張する「量子カーネル」技術を活用した異常検知システムを開発し、従来の手法では困難だった長距離における高精度な異常検知を実現したと共同で発表した。
同成果は、慶大とTOPPANの共同研究チームによるもの。詳細は、8月31日から9月5日まで米・ニューメキシコ州アルバカーキで開催されたIEEE主催の量子コンピューティングの国際会議「QCE25」にて口頭発表された。
“量子カーネル”を用いて高精度な非接触検知を実現
スマートファクトリ化が進む製造業において、設備の異常検知は、製造効率と製品品質の向上のために不可欠な要素だ。しかし、従来のシステムは各設備に複数の振動センサを物理的に取り付ける必要があり、設備数の増加に比例してセンサ数が急増するという課題があった。さらに、センサの配線工事や電力供給のコストが膨大で、従来の機械学習モデルの構築には数万点という膨大なデータが必要とされていた。これらの課題を解決すべく、研究チームは今回、非接触で複数の異常を検知できる手法を、量子カーネルを活用して提案したという。
今回の研究では、コンベアとチェーンベルトマシンを隣同士に設置した実験環境を構築。その上で、“音響信号の非接触収集”、“自己回帰モデルによる特徴抽出”、“カーネル空間を用いた分類”という3つの技術を組み合わせた新しい異常検知システムが組み立てられた。
まず音響信号の非接触収集では、指向性マイクロフォンを用いて非接触で音響信号が収集された。またその際、コンベアとチェーンベルトマシンが設置されている位置とセンサとの間の距離を変化させ、その影響が調べられた。
また特徴抽出に用いられた自己回帰モデルとは、時系列データにおいて、過去の値から現在の値を予測する数学モデルのことだ。これを用いて、収集された時系列音響データから係数パラメータを抽出し、特徴量への置き換えが行われた。
そしてカーネル空間を用いた分類では、機械音から抽出された特徴データをカーネル空間にマッピング。その上で、機械学習手法「1クラスSVM」分類器を利用して正常な状態と異常な状態を明確に分離し、異常を誰の目にもわかる形で判定できるように工夫された。
実験の結果、量子カーネルを用いた非接触異常検知システムが、0~3mの全距離において、92%以上という高い精度を維持することが実証された。対照的に、従来のRBFカーネルは2m地点で38%まで性能が低下し、統計的に有意な差が確認されたとする。
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量子カーネル(左)と従来のRBFカーネル(右)の距離別性能比較。横軸はコンベアとチェーンベルトマシンが設置された場所から、マイクロフォンまでの距離を示す。縦軸は性能指数(F1-score)。量子カーネルは、全距離で安定した高性能を維持した(出所:TOPPANプレスリリースPDF)
さらに、さまざまな特徴空間の中から、異常の種類を見分ける最適な組み合わせを発見し、グラフ化(可視化)にも成功。その結果、コンベアの異常は第2象限、チェーンベルトマシンの異常は第4象限に明確に分離され、両方の異常は両象限に分散して現れる傾向が見られた。このことから、単一の非接触センサで複数設備の異常タイプを同時に分類できることが示された。
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チャンネル3における2次元特徴空間での異常パターン分類。各異常タイプが明確に異なる象限に分離されている。(a)コンベア(CON)とチェーンベルトマシン(CHA)共に正常な場合。(b)両方が共に異常な場合、第2~第4象限に点が広がる。(c)CONが正常でCHAが異常の場合、第4象限に点が集まる。(d)CONが異常でCHAが正常の場合、第2象限に点が集まる(出所:TOPPANプレスリリースPDF)
今回の研究成果により、従来の接触型センサを大幅に削減しながら、遠距離での高精度異常検知が可能となり、次世代のスマートファクトリの実現に向けた重要な技術基盤が確立されたとする研究チームは、今後の展開として以下のような目標も明らかにした。
- 短期的(1~2年)展開:より多様な製造設備や実際の工場環境での実証実験、4種類以上の異常タイプの同時検知
- 中期的(3~5年)展開:商用量子コンピュータ上での実装、振動や電磁波など、他の非接触センサとの組み合わせ、医療や金融データへの量子異常検知技術の応用拡大
- 長期的(5~10年)展開:誤り耐性量子コンピュータ(FTQC)での完全量子アルゴリズムでの実装、産業界全体への量子技術導入促進、次世代製造システムの標準技術確立
今回の研究成果は、次世代スマートファクトリの実現に向けた重要な技術基盤の1つとなり得るとのこと。研究チームは今後、上述の目標に基づき、さまざまな状況下での実証実験を進めていくとする。これにより、製品品質の安定化や導入・運用コストの削減などを実現し、量子技術の産業界への応用と、次世代製造システムの標準技術確立に貢献するとしている。
