産業技術総合研究所(産総研)は7月29日、物質中の分子を調べる光技術である「ラマン分光法」と機械学習を応用し、神経細胞の活動を迅速かつ正確に評価するシステムを開発したと発表した。
同成果は、産総研 細胞分子工学研究部門 ステムセルバイオテクノロジー研究グループの赤木祐香研究員、同・木田泰之研究グループ付、同・則元彩テクニカルスタッフらの共同研究チームによるもの。詳細は、化学全般を扱うオープンアクセスジャーナル「Molecules」に掲載された。
蛍光プローブや電極を使わず(細胞や組織にダメージを与える危険性がなく)、計測に手間や時間を要さず(簡便に)、低コストな神経細胞の活動による分子変化を正確に計測できる技術が求められていた。そこで研究チームは、対象物にレーザー光を照射した時に散乱する「ラマン散乱光」から対象物の分子情報を得るというラマン分光法に注目。高速なレーザー光を用いて対象区間の円内をらせん状にくまなく走査でき、なおかつ高感度でラマンスペクトルを取得する技術「ペイント式ラマン分光システム(PRESS)」を開発した。
これにより、レーザー照射時間が短縮化され、細胞への熱ダメージを低減することができるようになったことから、効率的に細胞全体からのスペクトルを取得できるようになったという。そこで研究チームは今回、同技術をさらに発展させ、これまで困難だったリアルタイムでの神経細胞の活動を簡単に評価する技術を開発することにしたとする。
今回の研究では、再生医療での活用を考慮し、iPS細胞から神経細胞を作製し、PRESSにより神経細胞の計測手法を検討することにしたとする。それと同時に、脳や脊髄、末梢系では神経細胞は集団で活動する神経核を形成するため、その集団活動に対しても簡便に計測を行える技術として、PRESSにおけるレーザー光の走査領域を大幅に拡大し、より広い領域から高感度なスペクトルを計測する方法も検討することにしたという。
まず、PRESSが神経細胞の活動を評価できるのかを検証するため、単一の神経細胞を対象にした試験が行われた。計測には、ヒトiPS細胞由来の「グルタミン酸作動性神経細胞」(脳の構成細胞の一種)が用いられた。同神経はグルタミン酸に反応すると細胞内のカルシウムイオン濃度が変化し、電気活動が変化するというものだ。そして、グルタミン酸溶液に反応した神経細胞からラマンスペクトルが取得された。
対照液(緩衝液)またはグルタミン酸溶液に反応したそれぞれ30個の神経細胞から得られたスペクトル情報が、統計解析法の一種の「主成分分析」により次元削減され、機械学習法のサポートベクターマシンにより計算が行われた。その結果、対照液に反応した神経細胞(対照細胞)と、グルタミン酸で刺激された神経細胞の分類精度は98%を示したという。これにより、PRESSはグルタミン酸溶液による神経細胞の活動の変化を高精度に検出できることが確認された。
次に、神経細胞が集団で活動する神経核を計測できるのかどうかが検証され、試験には、ヒトiPS細胞由来の「自律神経細胞」(興奮やリラックスなどを制御する神経細胞)が用いられた。同細胞は体内では集団の神経核の状態で存在し、作製されたものも数十個の神経細胞が凝集した形態を示したという。そしてこの神経凝集体の機能を評価するため、測定面積が最大49倍に拡大され、レーザー光の走査速度や露光時間を調整するなどしてPRESSの測定手法が改良され、複数の細胞からなる広い領域のラマンスペクトルを数秒間で取得できる手法が確立された。
また、S/N比の高いスペクトルの計測のための条件も検討された。自律神経細胞を活性化するニコチン溶液または対照液に反応した神経凝集体から、それぞれ30領域ずつラマンスペクトルが取得された。得られたデータを機械学習で解析したところ、対照液に反応した神経凝集体(対照群)とニコチン溶液に反応した神経凝集体を98%の精度で識別できたとする。さらに、ニコチン刺激により神経活動に寄与する分子情報として、特定のラマンマーカーの検出にも成功。さらにPRESSは、ニコチン濃度に依存した神経細胞の活動の評価も実現。これは、ニコチン濃度によって反応する神経細胞の割合や細胞内での変化が異なることを捉えた結果と考えられるとした。
今後は、計測と解析の自動化による迅速で低コスト、かつ高精度な細胞活動の評価を目指して、PRESSの技術改良を進めるという。具体的には、ロボティクスや画像解析の技術を応用し、多検体の自動計測を可能にするほか、最先端の光学技術を取り入れ、ラマン計測の感度や時間分解能の向上も図るとする。さらに将来的には、創薬分野における新薬開発や毒性評価、生殖医療における非破壊な胚評価への今回の技術の活用を検討していくとした。