今や日本の全人口の約2人に1人が何らかのアレルギー疾患に罹患しているとも言われる現代。アレルギーの発症は日常生活に支障をきたすことも多く、重篤なものは入院を必要とすることもある。そうした中で、人の健康に配慮した製品の実現に向けた研究開発を進めてきた花王では、乳児の皮脂RNAを解析することで、アレルギー性皮膚炎の一種であるアトピー性皮膚炎(AD)の早期発見・治療につながる研究成果をこれまで報告してきた。そこで今回は、この同社が研究を進めてきた皮脂RNA技術とはどのようなものであるのかという点を中心に、乳幼児ADや成人重症ADとの関係性について、花王 研究開発部門 生物科学研究所の桑野哲矢氏ならびに高田直人氏にお話を伺った。

  • お話を伺った花王 研究開発部 生物科学研究所の桑野哲矢氏と高田直人氏

    お話を伺った花王 研究開発部 生物科学研究所の桑野哲矢氏と高田直人氏

花王が開発した非侵襲性の皮脂RNAモニタリング技術

身体の組織から生体試料を採取し、どういったものが含まれているのかを解析する技術は近年、目覚ましく性能を向上させてきており、これまで良く分からなかったものまで分かるようになってきた。例えば、皮膚などの身体の表面から採取可能な生体試料からは、「DNA」「タンパク質」「代謝物」「RNA」などを得ることができるようになっている。DNAは主に髪の毛や爪、タンパク質は角層、代謝物は皮膚ガスや汗などから非・低侵襲的に採取して分析することが可能であるが、RNAについては従来、パンチバイオプシーと呼ばれる皮膚をくりぬいて組織サンプルを採取する方法や血液採取といった侵襲性の高い方法でしか解析できなかったという。

身体の中ではDNAがヒトの設計図の役割を果たし、RNAに情報が転写されてタンパク質ができる仕組みがあり、生まれてから生活を送る中でDNAは変化しないが、RNAは変化していくといわれている。つまり、RNAを採取できれば現在の体内状態を把握することができるのだ。しかし、上述のようにRNAを採取するには侵襲性が高い手法を必要としたため専門のクリニックで検査を行う必要があり、特に乳幼児に対してそうした検査を行うのは難しかったという。

  • DNAとRNAの違い

    DNAとRNAの違い(提供:花王)

非侵襲性で皮脂からRNAを採取することを目指して花王が開発したのが「皮脂RNA技術」だ。花王の研究チームは2019年、ヒトの皮脂中には脂質だけではなくRNAが含まれることを発見し、あぶら取りフィルム1枚から非侵襲的に皮脂RNAを抽出することに成功。それを用いて、RNA発現情報を網羅的に解析することを可能にした「RNA Monitoring(RNAモニタリング)」の開発に成功した。

  • 皮脂RNAモニタリングの解析の流れ

    花王の皮脂RNAモニタリングの解析の流れ。あぶらとりフィルム1枚でRNAを解析できる(提供:花王)

乳幼児のアトピー性皮膚炎の早期把握はなぜ大切なのか?

乳幼児ADはかゆみやあれをともなう慢性の炎症性皮膚炎で、重症の場合、睡眠障害や学業不振、うつ症状などメンタルヘルスに関連する症状の発症にも繋がることがあるほか、食物アレルギー、気管支喘息、アレルギー性鼻炎など、連鎖的にアレルギー疾患を発症していってしまう「アレルギーマーチ」の入り口となってしまうことも指摘されている。この理由としては、離乳食が始まる前にADを発症してしまうことで、あれた肌からアレルゲンが体内に入り、いざ食べ物を食べた際に防衛反応が体内で引き起こされることで食物アレルギーが発症、それを引き金に喘息や、アレルギー性鼻炎なども引き起こされていくことが考えられている。

  • 乳幼児のAD治療が遅れるとアレルギーマーチの入り口となる可能性が高まる

    乳幼児のADは治療が遅れるとアレルギーマーチの入り口となる可能性が高まる(c)Meyer Rらの論文を基に作図

アレルギーマーチを防ぐためにも、乳幼児期におけるADの早期発見と早期治療が重要となってくるが、乳幼児のAD診断は客観的なバイオマーカーによる診断基準がないことに加え、乳幼児期にはさまざまな皮疹が発現しやすく、アトピー性皮膚炎と似たような症状がでることも多く、そこからADを見極めるには医師の診察技量に依存してしまう部分があるという。また、中にはAD診断までに長期間の皮膚状態の観察が必要になる場合もあるなど、乳幼児本人だけではなく医師や保護者にも大きな負担が生じることもあり、非侵襲的かつより簡便に解析できる技術の開発が求められていた。

  • 新生児の乳児湿疹のイメージ

    新生児の乳児湿疹のイメージ

花王と国立成育医療研究センターの研究チームは出生後1カ月から6カ月までの乳児から皮脂を採取し、皮脂RNA解析ができた乳児90名を対象に研究を実施したところ、AD乳児では、生後1カ月時にはすでに免疫応答や皮膚バリアに関わる分子に特徴的なRNA変化があることを確認するなど、あぶらとりフィルムの非侵襲性を活かして皮脂RNA技術により解析を行うことで、医師の診断よりも早いタイミングでADを判別できる可能性を見出したという。

RNA保存の技術も開発

花王のRNAに関わる技術はこれだけではない。採取後の皮脂RNAは基本的に常温で放置しておくと、皮脂と共に採取される「分解酵素」によって分解され安定した分析結果を得にくい課題があったが、RNAを分解する酵素は水を必要とする加水分解酵素であることに着目し、活性阻害剤としてRNA分解酵素の立体構造を変性させるグアニジン塩酸塩と乾燥剤を用いて、常温でも安定して保存することに成功したという。

常温での保存・輸送が可能になり、どこでも誰でも簡単に皮脂RNAモニタリングを活用できるようになったことで、同社は現在、乳幼児の肌バリア機能を相対評価する郵送検査サービス「ベビウェルチェック」を開発し、「乾燥を防ぐ力」「うるおいを保つ力」「丈夫な角層を作る力」を5段階評価で行い、総合的な評価からアドバイスを行っている。

成人AD重症度把握にも対応する皮脂RNA技術

乳幼児だけではなく、この皮脂RNA技術は成人重症ADにも対応する。成人ADは症状や経過が多様であるほか、治療薬の種類もさまざまあることから、重症度を鑑みながら医師が適切な処置を施すことが重要となるという。

これまでの皮脂研究は軽中等症ADが対象であったが、研究チームでは複数の大学の研究者らとともに重症の成人AD患者を含めた検討を実施、ADの重症度に伴って変化する分子が皮脂RNA中に含まれることを確認したことも報告しており、重症例を含む幅広いADの常態を非侵襲かつ精緻にモニタリングできる可能性を示している。

  • 健康成人、軽中等症AD、重症ADの皮脂RNA発現情報の類似度

    健康成人、軽中等症AD、重症ADの皮脂RNA発現情報の類似度 (提供:花王)

このことから皮脂RNAは、年齢に関わらず、簡便で肌を傷つけることなくADの状態をみることができるため、患者に合わせて最適な治療方法を提供することが期待できるという。

皮脂RNA情報をもとに早期治療を開始することで、アレルギー症状が緩和・寛解の方向へ進む可能性を高めることはできる。しかし、炎症がおさまり一見正常に見える皮膚も組織学的には炎症細胞が残存しており、再び炎症を引き起こしやすい状態にあるため、症状がでたときに治療する「リアクティブ療法」ではなく、症状の出る前から予防的に治療する「プロアクティブ療法」を行い、治療を根気よく続けていくことが重要だと、研究員の方々は語っていた。