「重度の麻痺で回復の見込みがない手を、また動かせるようにする」

多くの医師が「夢物語だ」とさじを投げたこの偉業に挑む、1人の研究者がいる。

慶應義塾大学理工学部教授の牛場潤一氏だ。

牛場氏が使用するのは、BMI(ブレイン・マシン・インタフェース)とよばれる、脳と機械をつなぐ技術。脳科学と最先端のAI(人工知能)技術を組み合わせて、脳卒中患者の麻痺を改善し、自分の意志で手を開く動きができることを目指す。

牛場氏は本務先の慶應義塾大学理工学部でおこなってきた研究を社会実装するため、2018年に「株式会社LIFESCAPES(前Connect株式会社)」を立ち上げた。2022年6月には総額7.2億円の資金調達を完了し、製品の販売開始に向けて具体的に動きはじめている。

牛場氏がBMIの研究を始めたきっかけは何だったのか、どのようにして手の麻痺を改善するのか、どういった思いで社会実装に取り組んでいるのか。物腰やわらかに語る牛場氏の背後にある、熱い思いにせまる。

AIと患者がお互いに「歩み寄る」ことで、脳を少しずつ変化させる医療機器

--先生は大学でBMIの研究を十数年間続けてこられ、研究を社会実装するために会社を立ち上げられました。手の重度麻痺を回復させる医療機器を発売される予定だと伺っています。これは、どのような医療機器なのでしょうか。

牛場氏:現在開発している医療機器は、脳卒中で重度に麻痺した手のハンドグリップ機能(物を掴んだり離したりする機能)を取り戻すための訓練装置です。脳と機械をつなぐBMI技術を活用して、まったく動かない状態の手を補助手(日常生活で補助的に使える手)にまで回復させることを目指します。

--まったく動かない手を動かせるようになるとは、驚きです。そもそもBMIとはどういった原理なのでしょうか。

牛場氏:まずは、「体が動く仕組み」から説明しましょう。

私たちが「手を動かしたい」と考えたとき、頭の中で運動をイメージしますよね。すると脳の運動野とよばれる場所が活動し、運動シグナルが筋肉に伝わって手が動きます。その後、「手が動いた」という情報が感覚神経を通じて脳にフィードバックされる仕組みです。 実は、最後の「脳へのフィードバック」が特に重要で、フィードバックがあるからこそ運動が上手に行えると言われています。

  • 体を動かす脳の仕組み

    体を動かす脳の仕組み(C)慶應義塾大学理工学部 牛場潤一研究室

では、麻痺が発生した場合はどうなるのかというと、重度麻痺の患者さんは、運動野から筋肉に向かうシグナル伝送経路がうまく機能しなくなった状態です。

そのため、「手を動かしたい」と思っても運動シグナルが伝わらず、手を動かすことができません。

実は脳には、元々のシグナル伝送経路が壊れた場合にその機能を「代償」する別の経路が存在します。一般的な治療では、代償経路を使えるようにするために運動イメージ療法(体を動かすイメージを繰り返し行う方法)などを実施しますが、脳にとっては全く手がかりのない、暗中模索な状態での訓練となるため、代償経路がうまく機能化していかない場合が多いのです。

そこで私たちは、BMIの力で代償経路の獲得をサポートする仕組みを考案しました。実は脳には、経験や刺激に応じて神経ネットワークが組み換わる「可塑性」とよばれる性質があります。

このようにしてBMIを使えば、脳の可塑性を誘導し、代償経路を使えるように脳のネットワークを変化させることが可能です。

--BMIの力で脳を変化させる……?

牛場氏:くわしく説明しましょう。

BMIは、ヘッドギアのような脳波センサと、脳波の状態に応じて指を動かすロボットから構成されています。

  • 脳波センサとロボットを装着した様子

    脳波センサとロボットを装着した様子(提供:慶應義塾大学理工学部 牛場潤一研究室)

患者さんは脳波センサとロボットを装着した状態で、麻痺した指を動かす動作を何度もイメージします。繰り返しイメージするうちに、代償経路を偶然うまく使えることがあります。そのときに発生する脳波をピックアップして、そのタイミングでロボットを駆動させて患者さんの指を動かしてあげます。

このとき、同時に指の筋肉に電気刺激を与えて筋収縮も促します。こうした一連のアクションにより、「指が動いたぞ」という感覚シグナルが脳にフィードバックされるのです。先ほどもご説明したとおり、このフィードバックが重要なんですね。

このようにして「代償経路をうまく活性化できた」→「指が動いた」という経験を重ねることで、脳の可塑性が発動し、脳の中の代償経路がうまく機能するようになります。やがて、患者さんは装置を外した状態でも指を動かせるようになるのです。

  • BMIによる機能回復機構

    BMIによる機能回復機構(C)慶應義塾大学理工学部 牛場潤一研究室

--代償経路をうまく使えた、という判断はどのようにして行うのでしょうか?

牛場氏:AIが脳波を解析して、判断します。脳波の特性(周期や強さなど)は患者さんごとに異なるので、AIはその違いを学習し、各患者さんに応じた方法で脳波解析を行います。

一方で、患者さん側もAIからのフィードバックに応じて代償経路の利用方法を学習します。AIと患者さんがお互いに歩み寄って、一番よい折衷案を見つけるイメージですね。

大学の研究としてこの技術を重度麻痺の患者さん38人に使用していただいたところ、28人に指の筋肉の反応がみられるようになりました。ここまで回復すれば、他の適切なリハビリと組み合わせながら、最終的には麻痺手を生活の中で補助的な手として使用することを目指せると考えており、それが患者さんの生活の質も向上につながると感じています。

--BMIを使用して脳のネットワークを組み換えて、代償経路をうまく使えるようにする。非常に革新的な技術だと感じました。

牛場氏:2021年には、日本脳卒中学会の治療ガイドラインにも、BMIを使った麻痺治療の有効性が記載されました。このガイドラインは医師が治療方法を選択する際に参照するものです。BMIが麻痺治療の選択肢として医師界から認められたのは、非常に価値あることだと思っています。

脳とAIの魅力にとりつかれた少年時代

--先生は、なぜBMIの研究を始められたのですか。

牛場氏:話は少年時代にまでさかのぼります。

小学生時代、学校のパソコンでプログラミングの勉強をしていたときにAIと出会い、「人間の脳の仕組みをプログラミングできるのか」と衝撃を受けました。中学生のころには、著名な脳科学者の先生方から脳の可塑性に関する講義を受ける機会があり、脳の不思議な性質に大いに魅せられました。このような経緯で、脳やAIに対する興味が募っていったのです。

その後、理工学部の大学生になった私は「脳のフロンティアを開拓するような研究をしたい」と強く思い、当時の指導教員に無理を言って医学部との共同研究を開始しました。病院内にある四畳半の狭い検査室で、毎日多くの医師や患者さんの声を聞く日々。そこで、リハビリ医療の現状や問題点について知り、BMIを活用したリハビリ治療の研究に取り組みはじめたのです。

--そうだったのですね。研究は順調に進んだのでしょうか。

牛場氏:最初はなかなか理解されず、苦労しましたね。「これだけ重い麻痺が治るとは思えない」と言われるのが常でした。

そのような状況でもあきらめずに検証を進めた結果、1人、また1人と麻痺が改善する患者さんが現れはじめます。そのうち現場からも治療効果を認められるようになり、研究もだんだん大きくなっていきました。

技術の「サービス化」を目指す

--牛場さんはBMIを活用した治療を社会実装するために会社を設立されています。会社は、現在どういったステージなのでしょうか。

牛場氏:2018年5月に起業して、丸4年が経過しました。現在、12名のメンバーで製品開発や品質管理体制の構築などを進めています。製品開発もいよいよ最終段階に入ったので、今後は近い将来の販売開始に向けて、販売力の強化や高度専門人材の採用などに力を入れる予定です。

--2022年6月には、3度目の資金調達にも成功されています。出資先からは、会社のどういった点を評価されているのでしょう。

牛場氏:前回の調達時にお約束していた、体制構築や製造開始をしっかり実現したことや、今までの医療では不可能だった重度麻痺の治療ができるようになる、という社会的意義を高く評価していただいています。また、会社設立後も大学の研究室から高レベルの特許や論文を出せている点や、アカデミアが主体となってBMI研究を盛り上げようという雰囲気を作り出せている点もポイントだったようです。

--出資を受ける上で、クリアすべき課題はありましたか?

牛場氏:出資先の方からは、「どのようにBMIを活用した治療をサービス化していくのか」といった点を何度も聞かれました。現状、BMIを活用した治療がなくても医療現場は支障なく回っています。そこに、まだ誰も見たことのない治療方法が「ポン!」と現れた場合に、これをどのように日々の臨床に組み込んでいくのか。この点は大きな課題です。

そこで重要となるのが、BMIを活用した治療の啓蒙や教育、運用支援といった「医療現場へのサービス活動」です。医療機器単体ではなく、教育や運用を含めたサービス全体を売る必要がある。このあたりのプランを、出資先の方と何度も相談しましたね。

「身が引き締まる思い」

--今回の出資を受けられて、どのようなお気持ちですか。

牛場氏:BMI技術を高く評価していただき、多くの方が仲間になってくださった。非常に身が引き締まる思いです。

今後は、いよいよ製品を販売するステージに入ります。製品が本当に医療現場の皆さまに受け入れられるのか。品質や価格、機能などの点で満足していただけるのか。本当にシビアなジャッジがされると思います。これからがいよいよ勝負です。皆さまの期待に応えられるよう、精いっぱい取り組みたいと考えています。

--心から応援しております! 最後に、今後の事業展開について教えていただけますか。

牛場氏:現在開発している製品は医療機関で使用するものですが、自宅でトレーニングを続けたい患者さんもいるでしょう。早期に、そういった方に向けた自宅用の製品を開発したいと考えています。さらに、製品の海外展開も検討中です。

私たちは、「患者さんが人生の希望、展望を取り戻すお手伝いがしたい」という思いで、会社を立ち上げました。社名である「LIFESCAPES」は、この思いを体現したものです。これからも、患者さんの人生に寄り添うことを第一として、BMIを活用した治療の普及に向けた挑戦を続けていきます。