はじめに

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に世界中が翻弄されている中で、海外では製造業の業績回復からさらに業績向上となってきている。製造業においても、以前よりIT投資を行ってきた企業にとって、遠隔地からの統合管理や作業指示は想定したシナリオだからである。また人との接触をできるだけ避ける「新しい日常」は新しい市場を創造しており、急激に需要が高まっている製品やサービスも増えてきている。

一方、日本の製造業は長きにわたるデフレ経済により、比較的安価で良質な従業員をフルに活用した人海戦術で乗り切る体質が根付いてしまった。ここにCOVID-19がまん延したことと、元々進んでいた少子高齢化が合わさることで人海戦術は行き詰まっている。

とりわけ少子化による現場作業員不足は加速しており、現場でのOJT頼みによる人材教育だけではすでに間に合わなくなっている。日本の現場では「習うより慣れろ」「教わるより盗め」といった、教わる側の自助努力にかなり依存した状況が長らく続いてきた。しかし携わる人材の多様化や流動化に対応するためには、これまでになかった丁寧な説明や教育が求められている。

本稿ではIT分野で近年急激に成長し注目されているAR(拡張現実)が、どのように製造現場を支えていくのかを紹介する。

日本のものづくりの課題

日本は世界でも例を見ないほど、急速な少子高齢化が進んでいる。令和4年に成人を迎える若者は120万人しかおらず、毎年のように過去最低記録を更新している。第二次ベビーブーム、いわゆる団塊ジュニア世代が成人を迎えたときは概ね200万人台だったので、40%減である。

このような少子化が進んだ結果として、日本におけるものづくりの課題はやはり人材不足である。経済産業省のレポート(参考資料1)によると、人材育成・能力開発が一番目、人手不足が三番目の経営課題として挙げられている。

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    図1 日本におけるものづくりの経営課題

また製造業の声を拾ってみると、特に現場作業員の不足が著しいとのことである。現場の優秀さを長らく誇ってきた日本のものづくりだが、それを支えてきた熟練工が高齢化により退職しているためだ。熟練工は作業内容の変化に柔軟に対応し、自ら作業を工夫して厳しい状況を乗り越えてきた。それを可能にしたのは長期的に継続した雇用環境と、先輩から時間をかけて学ぶことができた状況であった。しかしながら現在では、20年以上前にあった就職氷河期による中堅層不足による世代の断絶、少子化による他業種との若手労働力の奪い合いである。また作業員もより良い条件を求めるため、現場の定着率も低くなっている。結果として、以前のように育成に時間をかけられなくなってしまったのだ。

エンターテイメントからエンタープライズへ、製造現場をサポートするAR

現在のオフィスでの事務作業の多くはITに支えられている。先進的な企業ではペーパーレスを実現し、情報はすぐに共有されるようになった。しかしながら、従業員の75%は現場で設備や現物を相手に格闘しているフロントラインワーカーである。日々進化し複雑化する業務を遂行するために、彼らも知識やスキルで武装する必要がある。にもかかわらず、彼らが頼りにしているのは未だ紙による作業手順書であり、IT機器があったとしても非常に初歩的なものにとどまることが多い。

そこで注目されているのはAR(拡張現実)という技術である。ARにもいくつかの種類があるが、本稿ではカメラで物体や環境を認識するタイプを紹介する。ARは元々、ゲームなどのエンターテイメントや販売促進のために活用されてきた。組み立てたおもちゃをデジタルコンテンツでより魅力的にする、飲料水のプロモーションとして購入者にミニゲームを提供する、などである。

VR(仮想現実)のようなデジタル世界に没入する技術との違いは、ARでは現実の視界にデジタル情報を重ねることにある。現物、現実をカメラなどで認識し、ディスプレイ越しの視界にデジタル情報を重ねて表示することで、状況に即した情報をより多く、より直感的に視覚で取り込むことが狙いである。

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    図2 ARによるプロモーションやエンターテイメントの例

保守サービス、作業指示、手順書作成など、ARが現場のさまざまな課題を解決

製造業向けARの活用領域として、最近増えているのは製造現場や保守サービス現場での作業指示である。また作業トレーニングでも活用されている。ARが有効となるユースケースのうち、本稿では2つのケースを紹介する。

1つ目は作業手順書だ。今でも作業手順書は紙で提供されることが多いが、作業の複雑さや守るべきルールの増加に伴い書類の量は増大する一方である。また頻繁に更新される度に印刷と差し替え作業に工数を取られてしまう。ここはAR活用の余地が大きい。

作業を手順ごとにキャプチャし、ARコンテンツとして配信できるソリューションとしてVuforia Expert Captureがある。Microsoft社のHoloLens2やRealWear社のHMT-1といったグラスウェアを熟練工に装着してもらい、いつも通りに作業をしてもらう。グラスウェアのカメラにより映像や写真がキャプチャされる。注意点などをコメントしてもらえればさらに音声ガイドとして記録される。また音声認識により手順を区切ることができるので、単にビデオカメラで撮影したものより、後の編集作業が楽になる仕組みとなっている。HoloLens2の場合はさらに作業位置や場所の情報も付加される。

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    図3 作業手順をグラスウェアでキャプチャ

キャプチャした映像などのデータをクラウド上のエディタで編集し、ARによる作業手順書として仕立ててグラスウェア、スマートフォンやタブレットに配信する。現場に配属された経験の浅い作業者は、このARによる作業手順書により作業を学ぶことができる。

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    図4 ARによる操作手順書で作業をガイド

Vuforia Expert Captureはすでに日本の製造業でも導入が始まっており、ある大手自動車メーカーでは導入した工程の作業手順書の作成時間が約40%短縮できた。また別の大手製薬会社ではトレーニング期間が約半分となり、トレーニングを受けた作業員の試験結果が30%も向上しているとのことだ。今後も導入の効果が期待できる。

2つ目のユースケースは、3D CADデータによる検査手順ガイダンスである。Quality Magazine(参考資料2)によると、製造業の67%は工程作業や検査作業を、紙による手順書を見て手作業で行っているという。とりわけ検査作業は人の目と手作業を必要な場面がまだまだ多い。一方で多大なコストと工数をかけて設計段階で作成された3D CADデータは、設計以外の部門での活用が望まれている。

そこで3D CADデータを活用した検査手順を実現するARソリューションとしてVuforia Instructがある。先ほど紹介したVuforia Expert Captureに似ているが、グラスウェアによる作業のキャプチャの代わりに、3D CADデータを活用することで対象物の確認箇所を正確に指示する。そこにテキスト、静止画、別で取ってきたビデオなどを付加してARによる検査手順ガイダンスを作成し、スマートフォンやタブレットに配信する。

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    図5 3D CADデータにより正確な位置を指定した検査手順書を作成

作成したARによる検査手順ガイダンスにより、現場の作業者は対象物の位置をすぐに把握できる。またビデオや画像により正しい方法で検査を実施できるようになる。

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    図6 ARガイドによるより正確な検査の実施

食品や機器など多様な品物を対象とした自動梱包機器を製造するHARPAK ULMA社では、納入先での機器のメンテナンス検査作業にVuforia Instructを活用することで、検査精度の向上や経験の浅い技術者の支援を目論んでいる。

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    図7 ヒューマンエラーの最小化とダウンタイムの低減

紹介したVuforia Expert Capture、Vuforia Instruct 共に作業や検査の結果を作業員に入力してもらい、そのデータをクラウドで確認できる。また作業員が気付いたことをテキストで入力することも可能だ。これらのフィードバックは無線通信ができない場所で入力しておいて、後で通信環境のあるオフィスに機器が戻った際にクラウドにアップすることもできる。実施した作業員からのフィードバックにより、作業手順や検査手順の改良につなげることができるだろう。

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    図8 テキスト入力による作業員からのフィードバック

おわりに

本稿では、人材の確保や育成が難しい現場作業員に対して、複雑化する作業手順や検査手順をARでサポートする取り組みを紹介した。幸いにも本稿で紹介したように、ARという新しい技術を面倒な開発工程を経ずに現場で実践できるツールが出てきており、取り組む企業が増えることで効果が実証されてきている。

取り組みを進めるために必要となる最後の一押しは、経営トップの理解と導入への強い意志である。社内で先導的な役割を果たしたのは経営トップであることを示している。

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    図9 デジタル技術の活用を進めるに当たって先導的な役割を果たした社員(参考資料1)

幸い、日本の製造業には危機感を感じ、新しい取り組みに意欲のある人材が残っていることが多い。経営トップが腹をくくり志のある社員が取り組めば、日本の製造業がARのような先進的なITを活用して海外企業と渡り合っていけると確信して、本稿の結びとする。

参考資料

  1. 経済産業省 2021年版 ものづくり白書
  2. Eliminate Paper Processes: New Innovations and Cost Savings for Inspection Workflows