2021年8月31日付でアジレント・テクノロジーの代表取締役社長、ならびにアジレント・テクノロジー・インターナショナルの代表取締役社長 兼 事業本部長に松崎寿文氏が就任した。

アジレントが世界に誇るICP-MSの開発、マーケティング、品質保証などをけん引してきた同氏が、ICP-MSという分析装置のみならず、アジレントの日本法人そのものをこれから、どのような方向に導いていくのか、その見据える未来の姿を伺った。

  • 松崎寿文氏

    2021年8月31日付でアジレント・テクノロジーの代表取締役社長、ならびにアジレント・テクノロジー・インターナショナルの代表取締役社長 兼 事業本部長に就任した松崎寿文氏

役割は働きやすい会社に向けた仕組みづくり

松崎氏は1985年に横河北辰電機に入社して以来、36年にわたってICP-MSの事業に関わり、アジレントのICP-MS事業を世界規模に成長させた立役者でもある(1992年に横河アナリティカルシステムズに移籍、2007年にアジレント・テクノロジー・インターナショナルに移籍)。そんな同氏がアジレントの日本法人トップとしての役割として捉えているのが、日本法人の従業員の方を向いて、さまざまな部門の人たちが自分たちの仕事を、どれだけ気持ちよく働けるようにできるか、という仕組みづくりに時間と労力を割いていくことだという。

すでに、同氏は社長就任前のアジレント・テクノロジーにてICP-MSの研究、開発、マーケティングなどを担当するアジレント・テクノロジー・インターナショナル事業本部を率いる事業本部長時代から、そうした取り組みに時間をかけて行ってきた経験があり、そうした経験を今度は日本法人全体に展開できる好機ととらえ、社長就任を受諾したという。

そうした働きやすさに向けた取り組みの代表的な例が、2021年1月に開設されたアジレント・テクノロジー・インターナショナル事業本部の新オフィスだろう。これは、2019年に実行計画を立ち上げ、多くの従業員の声を聞き、その見た目のみならず、居心地の良さ、空調や音、ガラスなど、細かいところまでこだわって作り上げたもので、その出来栄えは、コロナ禍で直接会って面接できなかった経験者採用の従業員が初めて来社した際に、「これは!」と文字通り感嘆符が付く反応を見せることもあるほどだという。

筆者も同社が新オフィスを開設する2021年1月のタイミングで取材の機会を得て、内部に足を踏み入れたが、細かいところまで、コミュニケーションを活性化させ、生産性を高めるためにはどういったことが従業員たちは求めているのか、というところを突き詰めた配慮が垣間見えた記憶がある。そのため、転職者などが、実際に初出勤でオフィスを訪れた際の感嘆ぶりは想像に難くないことは理解できる。

  • 松崎寿文氏

    2021年1月にリノベーションを終え、開設されたアジレント・テクノロジー・インターナショナル事業本部のオープンスペースにて撮影

「働きやすさという点では人事制度や給与制度というところもありますが、それは日本独自で何かできるかというと難しいところがある。ただし、従業員のキャリアプランを考えたとき、入社してから何年かして、配属された仕事のスペシャリストになったり、管理職となる道もあるが、世界トップクラスの製品開発に携わることと、それを日本の顧客に販売、サポートするということの2つの異なる経験をしたり、日本の顧客に対する販売から、今度は海外の顧客に対する販売に移る、といった経験をしたいと思った人を、後押しできる制度というよりも文化がすでにある。自身のキャリアプランを達成していくために、次にやりたいことに挑戦できる。あまり例はないが、グローバル企業なので、海外に異動するということも可能。そういう想いを持っている従業員を後ろから押してやる。それも1つの働きやすさ、働き甲斐になってくると思っており、そうした動きを活発化させていきたい」(同)と、従業員ひとり一人のやりたいと思っていることに対し、実際にそれをやって良いんだ、という雰囲気を作っていくことで、その実現を後押しすることこそが自身の役割であるとする。

実は同氏自身も、日本が主導するICP-MSの研究開発のトップという肩書に加え、グローバルの役職として、元素分析製品群全体の研究開発のトップという肩書も持ち、オーストラリア・メルボルンにある開発チームも束ねる役割を担っているという。この2つの開発チームは違う原理を用いつつも、同じ元素分析として共通する部分も多いことから、互いのエンジニアが技術のやりとりを行ってきた経緯があるが、「これがリモートワークの体制が整ったことから、そのやりとりの効率が向上した」という実感を得ており、それゆえに「コロナ禍以降、考えているのは、リモートワークができるようになったので、例えば、メルボルンのチームからプロジェクトマネージャーを募集するという話が出たとして、現地に移住することなく、日本からその仕事ができるようになっていくかもしれないし、そういう海外の仕事に手を挙げる人が増えてくることが考えられる。キャリアプランを考えるうえで、日本の中だけで考えてはいけない、という意識が広がっていくと思う。そうなっていくと、非常に楽しい会社になっていくと思う」と、働き方そのものが今後、さらに変化していく可能性も見据えている。

信条は「楽しく仕事をすること」

松崎氏は、社会人になって以降、「仕事は楽しくやらないとダメ」という信条を掲げてきたという。仕事である限り、楽しくないこともでてくるが、「アジレントは会社の文化として、“ベスト・イン・クラスの仕事をせよ”というものがある。担当する分野の第一人者であれ、ということを求めるということ。ベスト・イン・クラスの社長というのがどういうものかはまだ良くわからないが、誰しもベスト・イン・クラスの仕事を長くやり続けるのは、簡単にできることではなく、辛いことのはず。でも、そうした辛いこともある中で、辛いなと思いながらも、やりがいも感じて楽しく仕事を続けていく、ということができるようにしていきたい。自分自身もそうしてきたつもりだし、どうやったら、そう思ってもらえるかを考えていきたい。オフィスのリニューアルもそうだし、楽しく仕事をする、ということがキーワードとなる」と、自身のこれまでの経験を交え、仕事を「楽しむ」ということを1人でも多くの従業員に感じてもらえる環境構築を目指すとする。

話を伺っていくうちに、同氏が「楽しむ」という言葉を大切にする理由が垣間見えた。確かに、仕事はきつく、むずかしく、大変なことが多いし、同社のようなハイテク技術を活用する必要があるビジネス領域において、楽な仕事があることもないだろう。しかし、理系出身者で研究室で昼夜を問わず実験を繰り返してきた経験がある人などには理解してもらいやすいと思うが、自分が携わる研究や技術開発がうまく行ったときの得も言われぬ湧き上がる感情が、まさにこの「楽しむ」、という同氏の語る言葉の感覚に近いという印象を受けた。「来る日も来る日も、どうやっても実験がうまく行かない日々が続くなか、あるアイデアが浮かんで、それを試してみて、見事に成功して1人でガッツポーズを取ったことが何度かある」と松崎氏も語る。

同氏が働きやすい環境の実現にこだわるのも、そうした仕事を楽しむことができる人が1人でも増えることを目指すためのものだからであろう。

同社には、アジレント・バリューと呼ばれる6つの価値観が存在している。その1つが、「Trust(信頼), Respect(尊敬), and Teamwork (チームワーク)」だという。Trustは日本語に直すと、「一緒に働く人を信頼しなければならない」といった訳となる。「海外のパートナーと組んで仕事をすることもあるが、うまく行かないこともある。なぜうまく行かないんだ、面白くならないんだ、と悩むときもあり、そうした時に、相手のことを信頼しきれていないんだ、と思い至ることがある。アジレントの従業員はたいていは信頼できる人たちなので、きっと何か情報が足りないんだ、ということになる。そこで、あっ、これが足りないんだ、ということに気が付いて、じゃあ、ここを埋めればこれで解決できるよね、と話しをすると、だんだん楽しくなってきて、相手の良いところも見えてくる」と、仕事のうえで、アジレント・バリューに立ち返ると見えてくるものがあるといった長年の同社勤務で培った経験なども、今後はより多くの日本法人で働く従業員が楽しく働くためのヒントになるかもしれないともする。

日本で手掛けてきたICP-MSへの想いと日本半導体産業への感謝

松崎氏の社会人としてのキャリアは1985年に横河北辰電機に入社し、研究開発のエンジニアからスタートした。以降、開発に携わってきたICP-MSは1989年に日本で発売されたが、その当時、海外メーカーの方が性能の良いものが多かったという。そこで会社から、世界一のものを作れという厳命が下され、そこから世界一に向けた挑戦が始まることとなり、やがてそれは結実し、世界に打って出れるだけの性能を実現することとなった(1994年に「HP 4500 ICP-MS」を世界市場に向けて販売を開始。5年間で750台以上生産された。その成功を受けて開発されたAgilent 7500シリーズは、4年間で1000台以上の出荷を記録する歴史的モデルとなった。現在は性能や機能が向上した後継モデルが販売されている。松崎氏も、7500シリーズについて、思い入れが深いICP-MSと語ってくれた)。

今、アジレントのICP-MSは世界でもトップクラスのシェアを有している。松崎氏は「次は、グローバルのどの地域・国においても圧倒的な一番になりたい」と、同事業の未来を語る。

短期間で性能向上を実現した背景には当時の日本の半導体産業の存在があったと同氏は振り返る。1980年代後半から1990年代にかけて日本の半導体産業は売り上げ規模トップ10社の半数を占める勢いを有していた。そうしたトップシェアを目指す多くの半導体企業のみならず、その製造のために必要となる超純水や化学薬品といった周辺企業も含めて、ICP-MSの性能向上に対する需要が強く存在していたことが、日本で研究開発する同社のICP-MSが躍進する陰の立役者となった。

そうした経緯から、「あまりグローバルでは言っていないが、日本の半導体産業におけるICP-MSのシェアをダントツにして、その性能の高さを活用してもらって、日本の半導体の成長につなげていってもらいたいという想いがある。当時NHKで放送された『電子立国 日本の自叙伝』を見て、これからは半導体だ、と衝撃を受けて以来、日本の半導体の役に立ちたいと思ってきた。今、そうしたことができるようになったと胸を張って言えるようになった」と、30年来の半導体産業に対する熱い想いを語ってくれた。

また、半導体分野を見ると、まだまだICP-MSの性能向上に対するニーズが尽きないという。そうした意味では、「30年も事業を続けてきて、まだ性能向上に対するニーズが出てくる。そういう意味ではまだまだ(ICP-MS事業を)やっていけると思っているし、それを成し遂げたら買ってくれる顧客が存在している。こんなに幸せなことはない。しかも、そうしたニーズを言ってくれる顧客が国内にいるということが、我々にとっての日本にいる価値である」と、日本の半導体産業があってこその、今のアジレントのICP-MSがあることを強調。今後も性能で他社に負けることなく、世界をリードしていくとする。

常に変化していく環境の変化にどう対応していくべきか

松崎氏は自身の新たな役職を踏まえて、「考えていかないといけないことがたくさんある」とこれからを見据える。その中心にあるのは、何度も出てきた「アジレントは楽しい会社」と言ってもらえるようにする環境整備となる。アジレントという会社自体も「Even Better Place to Work(さらに優れた働き場所)」という言葉を掲げているが、その実現のためには、現状でも働くに良い場所であるには間違いないとする一方で、現状のギャップがどこにあるのか、働き方も部門ごとに異なる中で、従業員たちに、楽しいと感じてもらうためにはどうすれば良いのかといった超えるべき課題も残っている。そのため、同氏も「どうやったら、楽しく働けるようになるのかを本当に理解したい」と、営業や研究開発といった仕事の領分の垣根を超えて、本当の働きやすさの実現を目指したいとする。

同氏は、「こういうことがやりたい、と言ってくれる人が増えるような企業文化を築いていきたい」と、目指すべきアジレントの姿を語る。また、「個性がある人たちが集まって、顧客を幸せにする世界最高の製品を作ることができれば、非常にうれしい」と、そうした取り組みの先にある未来を見据える。

研究開発に携わり、企業の経営にも携わる。八面六臂の活躍が期待される松崎新社長の挑戦は始まったばかり。その見据える先にある、より多くの人が“楽しむ”ことができる未来が実現されるその日を期待して、今後の動きに注目していきたい。