欧州原子核研究機構(CERN)の反物質研究チーム「ALPHA」は、水素の反物質である反水素原子の光スペクトルの測定に初めて成功した。物質と反物質の違いを解明していくうえで重要な成果となる。研究論文は科学誌「Nature」に掲載された。
ALPHAチームはこれまでの研究のなかで、反陽子(陽子の反粒子)と陽電子(電子の反粒子)を組み合わせて、反水素原子を人工的に作り出す実験に成功していた。反水素原子の性質を詳細に調べることで、物理学の新たな発見につながる可能性がある。
特に関心が持たれているのは、物質と反物質にはどんな違いがあるのかという問題である。粒子とその反粒子は電荷のプラスマナイスが異なるだけで、その他の性質(質量やスピン)は双子のようにそっくり同じに見える。また、現代の標準的な宇宙論では、ビッグバン直後の原始の宇宙では物質と反物質が等量存在していたと考えられているが、その後の宇宙形成の過程で反物質は消えてしまい、なぜか物質だけが残ったとみられている。その理由はまだよくわかっておらず、物質と反物質の違い(非対称性)が発見されれば、宇宙から反物質が消えて物質だけが残った理由を説明できるようになる可能性がある。反水素原子のスペクトル分析は、反物質の性質を探る研究の第一歩であると言える。
反物質は通常の物質に触れると対消滅して消えてしまうため、実験に必要な量の反物質を作り出し、一定時間保存しておくこと自体が非常に難しい。ALPHAチームでは、反陽子減速器で作った約9万個の反陽子からなる反陽子プラズマを陽電子と混合し、1試行あたり2万5000個程度の反水素原子を生成。これらの反水素原子を捕獲する磁場トラップ技術を改良し、これまで1回に1.2個の反水素原子しか捉えられなかったものを14個捉えられるようにした。こうして捕獲した反水素原子にレーザービームを照射することで、反水素原子のスペクトル観察に成功した。
今回観察されたスペクトルは通常の水素原子の輝線スペクトルと同じもので、これ自体は素粒子理論の標準模型から予想されたとおりの結果である。ALPHAチームでは今後、実験装置の技術革新と測定の精密化を進め、物質と反物質とで異なる振る舞いがあるかどうかについて、さらに研究していくとしている。
物理学の発展に寄与してきた水素原子
水素原子は、プラスの電荷を持つ陽子1個で原子核が構成され、原子核の周りをマイナスの電荷を持つ電子1個が周回するという構造になっている。陽子1個、電子1個というすべての元素のなかで最も単純なモデルであるため、これまで物理学上の重要な事実や法則の多くが、水素の研究を通して発見されてきた。
原子核の周りの電子はいくつかの定まった軌道上しか動くことができないとする量子論的な原子模型は、1913年にデンマークの物理学者ボーアによって提案されたが、この理論も、水素の光スペクトルを説明するために考え出されたものである。
水素ガスを封入した放電管に高電圧を加えると発光現象が見られるが、この光をプリズムで分光して得られるスペクトルは、いくつかの決まった波長の値でスペクトルの連続性が途切れ、明るい線(輝線)や暗い線(吸収線)が現れるため輝線スペクトルと呼ばれる。ボーアは、水素原子内で電子がとれる軌道があらかじめ決まっており、ある軌道から別の軌道に電子が飛び移るとき、決まった量のエネルギーが放出または吸収されると考えることで輝線スペクトルを説明できることを示した。水素原子だけでなく、その他の元素もそれぞれ固有の輝線スペクトルを持っており、それらは原子内部の電子軌道の状態によって決まる。
ボーアの原子模型は、軌道と軌道のあいだの途中の空間を電子が通過することはなく、あたかも瞬間移動(ワープ)のように電子が軌道間をジャンプすると説明している。これは直観に反する現象だが、そう考えないと輝線スペクトルをはじめとするさまざまな実験的事実の説明がつかないため、やがて受け入れられ、粒子のエネルギーはとびとびの不連続な値を持つとする量子力学の形成につながっていった。