世界最小の映画と作ったのは…

本の世界には、豆本やマイクロブックと呼ばれる手のひらよりも小さなサイズのものが存在し、実際に販売もされているし、ファンも大勢いる。2013年6月時点で、世界最小のマイクロブックを作製したのは日本の印刷会社である凸版印刷で、そのサイズは0.75mm角と、ルーペを使わなければ、中身を閲覧することも難しいサイズとなっている。

では、映画の世界を考えた場合、世界最小の映画を製作したのはどこの誰か?。世界にはワーナー・ブラザーズや20世紀FOX、ソニー・ピクチャーズ、ディズニーなどなど多くのメジャーな映画配給会社があるが、実はそうした名だたる配給会社ではない。ならば中小の映画関連会社か、というとそれも違う。答えは、まったく違う分野を主ビジネスとするIBMだ。

IBMが映画を作ったと言われると、不思議に思う人も多いことだろう。確かに同社の現在の事業の本流はサーバなどのハードウェアとネットワークを融合させたクラウドソリューションやサービスであり、特に近年はハードウェアよりもサービスの比率が増している。少し前までは、今はPC(Lenovoに売却)やHDD(日立製作所に売却)などの分野で一般の方も良く目にする機会があったので、そういった事業で馴染み深い人も多いように思う。

そんな同社が何故、世界最小の映画などというものを作ったのか。それを説明するまえに、その映画そのものを説明しておきたい。

原子の世界を駆け巡る世界最小の映画

「A Boy and His Atom」というタイトルを冠したこの映画、少年が、1個の原子(Atom)と一緒に色々な遊びをするというものだ。どんなものであるかは、Youtubeに実際の映像を見ることができる(1分34秒と短いので、気軽に見ることができるはずだ)ので、そちらをご覧いただければと思う。

原子を主役にして世界最小の映画「A Boy and His Atom」。最近、日本語字幕版が掲載された

いかがだったろうか。モノクロ、かつ粗いドットで構成されているため、アニメが出来たころのような古めかしいような映像で、パッと見、これが本当に世界最小なのか?、という気がしないでもないが、正真正銘の世界最小映画なのである。なぜかと言えば、実は、あのドット一点一点が原子なのだ。原子というと、物質を構成する最小単位であり、もちろん人間の目で見ることはできない。物質を構成する最小単位である原子を主人公に据え、舞台も原子の世界、つまりこれ以上小さなものを扱った映画は存在しないが故に、世界最小の映画ということになる。

原子はどれくらいの小ささなのか。一概に原子のサイズはこれくらい、とは言い切れないが、ざっくりとした数字でいうと半径0.1ナノメートル程度。これを映画では縦25ナノメートル、横45ナノメートルの銅板をステージにして1個1個動かして撮影が行われた。半径0.1ナノメートルだとわかりづらいので、どんなものかをイメージしてもらえるような例えを述べるとすると、原子1個をオレンジ1個の大きさとした場合、現実世界のオレンジ1個分の大きさが地球のサイズとなる。ちなみにこの映画、ちゃんと世界最小の映画としてギネス世界記録に認定されている。

1個の原子をオレンジサイズに拡大すると、現実世界のオレンジは地球サイズまで大きくなる。実際に映画で撮影された原子には炭素原子と酸素原子が結びついた一酸化炭素分子(原子)が用いられた

色々な世界初を生み出してきたIBM

話を元に戻そう。なぜIBMが、このような映画を作ったのか。別に映画そのものを作ろうと思って作ったわけではない。同社は1911年に設立されて以降、これまでのおよそ100年間にわたる間のビジネスにおいて、さまざまな世界初の技術を開発してきた。例えばPC規格の主流となったPC/AT互換機はIBM PCがベースだし、OSやHDD、RISCプロセッサなども同社が生み出したものだ。そうした初めての技術の1つとして、原子や分子を見るために開発された装置が「STM(Scanning Tunneling Microscope:走査型トンネル顕微鏡)」だ。余談だが、STMの研究開発者であったハインリッヒ・ローラーとゲルト・ビーニッヒは、その功績から1986年にノーベル物理学賞を受賞している。

STMの外観 (「A Boy and His Atom」のメイキング映像より抜粋)

STMの模式図

この装置を使えば、誰でも原子を自由に扱えるんだろう?、そう思う人も多いことだろうが、確かにそれだけの技術と設備があれば可能だが、果たしてそれだけの技術と設備を持っている企業、研究機関が世界中にどれだけ居るだろうか?。また、今回の映画には約250コマ(正確には242コマ)が用いられたが、撮影は-268℃という超極寒(絶対零度は-273.15℃)の世界に原子を閉じ込め、それを1日18時間、9日間にわたってかけて行われた。少しでも熱がある世界では、分子や原子はエネルギーを持ち動いてしまうし。ちょっとした圧力や振動があっても動いてしまう。また、じかに原子に触れてしまうだけで、原子はどこかに動いてしまう。そうした中で原子を指定した場所に正確に運ぶ技術が、どれほど困難なものかを想像していただけると、技術的困難の度合いが分かっていただけるだろう。

そういった意味では、この映画はIBMが自分たちの持つ技術をいかんなく発揮するために撮影されたものだ。こうした高い技術力は同社が米国における2012年まで20年連続で特許取得件数1位を記録していることでも証明されているし、例えば、6月初頭にIntelが22ナノメートルプロセスを採用した第4世代Coreアーキテクチャ(開発コード名:Haswell)を発表したことが話題となったが、そうした最先端の半導体プロセスの研究の中心に同社が居ることでも証明されるだろう。IBMと半導体が結びつかない人も多いかもしれないが、同社の最先端の半導体研究施設には、世界中の名だたる大企業(例えばSamsung ElectronicsやAMD、AMDの製造部門が独立したGLOBALFOUNDRIES、Motorolaの半導体事業が独立したFreescale Semiconductorなどのほか、日本ではPlayStation 3のCellを東芝、ソニーと共同で開発したことを覚えている人もいるだろう)が、スタッフを派遣し、共同研究という形で、最先端技術の開発を進めている。

もちろん同社は企業なので、単に研究だけしているわけではなく、将来的には、そうして開発された技術が何らかの形で、実用化され、前述の半導体コンソーシアムではないが、同社に限らずさまざまな企業がビジネスとして活用する可能性が高い。2011年に米国で人気のクイズ番組「Jeopardy!」の歴代最強とうたわれた2人のチャンピオンを同社の最先端技術を詰め込んだ人工知能システム「Watson」が破った((1997年にチェスチャンピオンを破ったDeep Blueも同社が開発した)が、現在、同システムは医療分野で、医者が患者の症状から疾病を判断する際の補助用途として用いられるようになってきたし、STMなどを活用してナノテクノロジーがさらに進化すれば、Google Glassのようなメガネデバイスに現在世界最高と言われるスーパーコンピュータ並の性能が搭載される可能性だってあるし、数TBや数PBクラスの記録容量をスマートフォンやSSDで実現することが可能になるかもしれない。これまで同社が実現してきた数々の技術を振り返ってみれば、今、こうして書いている夢のような話題も、将来的には意外と実現できてしまっている、という気がしないでもない。

IBMのメインフレーム「System/360」。商用機としては初めてOSの概念が採用された (出所:IBM Webサイト)

IBMのPowerアーキテクチャをベースに開発されたRISCプロセッサ「PowerPC」 (出所:IBM Webサイト)

1997年にチェス世界チャンピオンと対戦し、勝利を収めたコンピュータ「Deep Blue」で実践されたコンピュータ科学の理論を発展させた子孫ともいえるスーパーコンピュータ「Blue Gene」シリーズ。幾度もスーパーコンピュータ性能ランキング「Top500」にて1位を獲得してきた実績を持つ (出所:IBM Webサイト)

そうした意味では、もし、これをお読みの方で、未来の技術がどんなものなのかを知りたいという方がいれば、同社の研究内容を一度チェックしてみることをお奨めする。同社は世界中に研究所を有しており、日本にもアジア初の研究所である東京基礎研究所があり、将来のコンピュータ・アーキテクチャの変革を担う、画期的なデバイスの研究などが行われている。近い将来には、そうした研究所などで生み出された、これまで誰も見たことがなかったような最先端の技術を取り込んだ製品が、きっと見えてくるはずだ。

「A Boy and His Atom」のメイキング映像。本編と同じく、こちらも最近、日本語字幕が追加されたバージョンが掲載された